10月某日
深まりゆく秋の日暮れ時というのは、ひときわ感傷的になる。車で東小金井駅のそばを走っていた時、たまらなくなつかしい気持があふれて、いてもたってもいられなくなった。
武蔵野らしい大木や、昔の商家を思わせる街道沿いの日本家屋が群青色に染まって、虫がリーンリーンと鳴いている。
何度か訪ねた林望先生の事務所もこのあたりだった。偶然、私の家のすぐ近くまでバスが走っていたので、インタビューが終わると一人バスに乗り、車窓に額をはりつけるように窓の外をながめながら帰路についた。
それはいつも秋だった。
作家と呼ばれる方々がこのあたりに多く住んでいるのは、畑道や雑木林や上水路がかもし出す田舎風情にひかれるせいだろうか。それは「緑が多い」「自然が残る」という表現とはかけ離れた、たき火の煙に込められた深い日本情緒なのだ。
20代の頃、「住むなら湘南と多摩とどっちかいい?」と、人によく尋ねた。海がある湘南は絶対的な魅力がある。それはリゾート気分に満ちて明るく、若々しい。けれど、多摩には集落とか里山のわびしい面影が残る。それがどれほどの価値があるかは住んでみなければ分からない。
吉祥寺行きのバスに揺られてたくさんのことを考えた。林望先生に見せてもらった英国田園のスケッチが余りに上手く、その世界観に興奮していたせいかもしれない。
★
10月某日
雑誌『クロワッサン』の美容特集で、体験取材を依頼された。某メーカーの美容液を7週間使って、私の顔がどのくらいリフトアップできるのか、頑張っている。
私の肌は無添加自然化粧品でさえ、ある成分に拒絶反応を示す。それが何か、いまだに分からない。以前、同じような雑誌の美容企画で、いただいた化粧品を使ったところ、2日目に顔がかゆくなり、皮膚が真っ赤になった。
今回は、クロワッサン編集部の方が定期的に連絡を下さるので、使い始めの頃はかぶれたり発疹が出たらどうしようとハラハラしたが、まったく問題なし。
朝晩、両手で頬をはさみ込んで、クイッとこめかみに向かって美容液をすり込む。
一カ月前に特殊な機械で撮影したビフォー写真はまるでお岩さんのよう。まぶたは腫れぼったく、恐るべきほうれい線も写っている。これが自分の顔なのかと呆然とした。
そういえば50代の秋吉久美子さんとお会いした時、インタビューを忘れ、彼女の肌のキメ細かさ、全く小ジワのない顔に「なんてきれいなのか!」と釘付けになった。
「女優だから、ぜったいブラセンタ注射か専門医の施術を受けているのよ」とその道の友人、知人は言う。だが、玄米を食べ、スピリチュアルな感性を持つ秋吉さんに限ってはそうとも思えなかった。では、なぜ50代の彼女がきれいなのか。
その辺りの事情を『女性の向上心』〈PHP新書〉に書いた。
女性の場合、内面と見た目は両輪。だが、40を過ぎた女性は早急に見た目を何とかしなければならない。どんなに素晴らしい人でも、傷んだ髪、手入れされてない肌では、他人に割り引いて見られる。
齢をとるほど良い点よりアラを探そうと、減点方式でチェックされてしまう。特に何かを持っていそうな女性に対しては、周囲の観察眼も厳しくなる。
大人になることは自分を守る術を体得すること。
撮影まであと数日、鏡を前に『クロワッサン』にはいい機会を与えていただいたと、せっせと肌を「上げて」いる。
★
10月某日
T医大に通っていた頃、とてもお世話になった婦人科の医師が、レディスクリニックを開業された。娘と二人、定期的に検診に行っている。
乳がん、子宮がん、ホルモンのバランスのチェック、生理不順、不眠対策など、数ヶ月に一度、気になることは何でも尋ねる。
O先生は大学病院で責任職をされていた。緊急の時は時間外でも話ができた。患者の訴えをよく聞いて下さり、一度など、他の医師が帰そうとした患者を「今すぐベッドをあけなさい」と緊急入院させた。
それは、私の友人で激しい腹痛を訴えたものの、他院で便秘と誤診されて激痛のあまり自宅で転げ回っていた。私は病院を通じてO先生に電話して事情を話した。すぐに診てもらったところ、卵巣に水がたまり肥大していると分かった。友人は緊急手術を受け、難をまぬがれた。
大学病院の勤務医が激減しているというニュースを見るたび、O先生のような熱心な医師に患者が集中し、絶え間なく働き続けていたのだろうかと思う。
レディスクリニックの帰りは、娘とお昼を食べながら医師に何と言われたか互いに報告し合う。この日だけは娘が私を気遣ってか「荷物を持ってあげようか」といたわってくれるので嬉しい。
両手にバッグを持って早足で歩く彼女の後をついていく自分も、この日ばかりは殊勝になる。
★
10月某日
講談社の担当、津田さんより大きな封筒が届く。中に彼女の描いたイラストが入っていた。私の新刊『イギリス式 年収200万円でゆたかに暮らす』のエピソードから発想したいくつかのシーンがセリフ付きで再現されていた。
とても嬉しくなり、編集部の若者たちを呼んで見せた。
「上手いっすねぇ」「津田さん、マンガ家なんですか」と多才な編集者に驚いた様子。
「セントキルダ島」の本を書いた時も、津田さんは地方にある某書店の店長宛に、なぜ著者がこのような本を書いたのか手紙を書いて下さった。「これは節約もののように、すぐに何かの役に立つものではないけど、キルダで起きた出来事は、読者の胸を打つ深い意味を持っています」そのような本だからよろしく頼みますと、くくっていた。
書き手にとって、自分の世界をバックアップしてくれる編集者の存在は大きな支えだ。
さっそくデザイナーが、このイラストをもとに活字を組んだ。どうなったかは、私のホームページをぜひご覧下さい。
イギリスの新聞や雑誌に載っているような、マンガのように単純でユーモラスな絵。これまで津田さんのイラスト付きFAXが手元に届くたび、どれだけ元気になったかしれない。言葉だけが全てじゃないんだ。私も誰かに絵を描き送りたくなった。
★
10月某日
日曜日の午前0時を回り、早や月曜日の早朝4時である。私はまだこの原稿を書いている。
先ごろ、千葉の漁村に編集部の若者3人と取材に行った折り、民宿のご主人が同郷長崎・雲仙出身の人と知り、子どもの頃の長崎の様子を語り合った。眼鏡橋、大浦天主堂、雲仙の温泉。懐かしがる私たちの会話に、若者たちは入れなかった。
18歳で上京したご主人は、今60代となり、少しずつ現役を退いている。奥さんの実家である銚子の民宿を継いで婿養子となったものの、漁師と民宿の兼業は並大抵ではなかったとか。
「俺は銚子にあるこの家の墓に入るが、死んだら長崎に帰ります」
その言葉に、ご主人がどんな思いで異郷で生きてきたかが分かり、切なくなった。
耳を澄ませば、燈台目がけて不気味な海風が吹きつけている。ドクドクと波打つ黒い大海原に帯状に広がる白波は、音もなく、湧き立っては砕け散る。
「漁火すら見えない太平洋は長崎の海とは違う。それでも長崎に似た海辺の街は、東京よりずっといい。俺は田舎もんだから、こういう漁村にしか暮らせない」
若者3人は朝5時から取材をしてクタクタというのに、ご主人が話し出すとメモを取ったり、空のグラスにビールを注いであげたりしていた。
彼らの明るい笑い声につられ、ご主人も饒舌になった。長崎に帰りたい、親はもういないが、兄弟も親戚もまだいるしなぁ。
民宿のただっ広い板張りの食堂をヒューッ、ヒューッと太平洋の風が吹き抜ける。ご主人の心はすでに生まれ故郷の長崎と銚子の海を行ったり来たりしているのかもしれない。
ふと、武蔵野の雑木林が懐かしくなり、東京に帰ったら、もう一度玉川上水のそばを歩きたいと思ったことだった。