エッセイ2009年
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連載エッセイ「大丈夫!」と言ってくれ 


あの頃、創造できなかった奇跡

 東京・吉祥寺の賃貸専門業者、Sさんと久しぶりにお目にかかった。知り合いに紹介され、かれこれ10年近くお付き合いしている彼は、駅前の小さなビルで、長く地元賃貸業者として頑張ってきた一人。吉祥寺の賃貸事情に詳しい。
 Sさんは、すっかり真っ白くなった頭をかきつつ、老眼鏡の奥からギョロリと大きな目玉をのぞかせる。

「いやぁー、吉祥寺もリーマン以前は、1ルーム8万円は取れたのにねぇ」

 昨秋のリーマンショック前後で賃貸物件の動きも、住む人の思考も、すっかり変わったそうだ。
 まず、6畳間に満たないワンルームは、荷物が多く、家ごはん指向になった若者が敬遠気味。トイレと風呂が一緒、お湯をザバザバ浴びれないユニットバスもNGとか。

「景気のせいだけでなく、少子化で子どもの数も減ってきた。新築できれいなアパートを建てて、高い家賃を取ろうと、もくろむ大家さんも多いけどねぇ。借り手の給料が下がっている今、部屋探しの基準も変わってるんですよ」

 Sさんは大きなため息をつきながら新築ワンルーム物件の図面を広げ、やれ空室だらけだ、やれこのご時世で8万円台前半の価格をつけるなんてと、ぼやく。
 考えてみると、吉祥寺に限らず、人気の高い街は古いアパートやマンションが多い。特にメンテナンスしなくても、老朽物件でも需要があるから借り手はわんさか集まり、グルグル回転する。
 ところが、このような人気エリアで新築を建てようと思ったら、そこそこの広さの土地だけで億近い価格になるから、家賃設定はバカ高い。よって借り手も着かず、結果さらし物件となってしまうのだ。

イメージ これまで、いくつかの講演会やイベントで新刊「老朽マンションの奇跡」(新潮社)について話をすると、みなさんがとても興味を持って下さった。
 住みたい街で常にNo.1となる吉祥寺に500万円で廃屋同然のマンションを買って、200万円(車一台分)で丸裸リフォームをしました。しかもロンドンで見たフラットです。すると、「私も同じことをしようとしていたんですよ」という声が続々上がり、びっくりする。
 本書を書き終えた今も、私のもとには安くていい家が見つかったら、ぜひ教えて欲しいという依頼が続いている。
「まるで不動産屋みたいですね」と、周囲があきれるほど、カバンの中には常に「チラシ」が入っている。出物を見つけると「こんなのどう?」と、図面を見せて、自分がいいと思う理由を述べる。これが楽しくてたまらない。仕事ではなく世話焼きの範ちゅうだからなおさらだ。

 これまで私は、古くても、中が汚くても、住まいの価値はロケーションと窓からの眺望で決まると思ってきた。日本、イギリスに限らず、これは住まいにおける普遍の価値だ。
 だとすれば、高齢化社会に突入し、不動産が底値という今、住みたかった街に理想の家を持つチャンスは、そこら中に溢れているといえる。
 巷では、煩わしい老朽物件を売ることも貸すこともできない高齢者や、古い家(マンション)を相続によって譲り受けた家族が困り果てている。アメリカのように人口が増えるわけでもなく、少子化社会日本で、家はこれからも余り続ける。
 だからこそ、イギリス人のように、古い住宅で理想の住まいを作る技術やセンスがあれば、私たちの生活不安から「住」の部分を取り除くことができるのではないかと思うのだ。
 耐震や設備の問題も多々あるものの、古い住宅の最大の魅力は「安さ」にある。
 住宅ローンを貸し出す銀行は、大手施工の新築物件に依然こだわっている。だが、年収×6倍を最大の融資枠と見れば、2000万円台の住宅が最も無理がない。月々の返済額もアパート並だ。

 家は人生の土台。日々の暮らしが満足できるか否かは、当然だが、家との出会いが決め手になると思う。リーズナブルに購入した、好きだ、と愛着のわく家に暮らす感動は、そこで生活する限りずっと続く。
 逆に、どんなに素晴らしい物件であっても、背負うローンが大き過ぎたり、何となくしっくりこなかったりすると、「いつか買い換える家」だと、どこか落ち着かない。
 あの時、周りの意見に流されず、もっと探せばよかった。もっと別の、もっと違うカタチの、もっと安い価格の……考え始めると、わが家でありながら、永遠に自分のものではない空しさがわき起こる。

 18歳から何度も引っ越しをした私とて、同様の苦い思いは何度か経験した。だから「安い」こと、リフォームによって、自分好みに家を替えることの必要性を痛感している。
 バーゲンで欲しい物を安く手に入れた時の満足感を思い出して欲しい。高額な家を羨む人はいなくても、安くて良い家なら皆、口惜しがるはずだ。こうなれば、家づくりの苦労とて、愛しい武勇伝となる。
 お金を出せば住環境の素晴らしい、見事な家に住めるのは当然のこと。これからはバーゲン価格で家を買い、信頼できる業者と共に再生する。そんな人がもっと増えるはずだ。
 すると20代、30代のカップルや独身女性にも、「家を持つ」ことは、ずっと身近になってくる。家具やファブリックにこだわれば、服・靴・バッグより食器や照明にも目がいくし、持ち物の整理もしたくなる。
 家にまつわるあらゆることへの興味は、おしゃれや食べ歩きより、もっと骨太で普遍的な気がする。そんな事を整理するように筆を進めた。

 少し話が逸れるが、去る10月の井形慶子ツアーに参加された方の中に、

「なぜ井形さんのスタッフは、喜々としてこんなおばさんたちの相手をしてくれるの? 荷物持ってくれたり、通訳してくれたり」

と、嬉しい言葉を頂いた。
 あまり書くと手前ミソを通り越すからほどほどにするが、「家探し」「旅のお供」も、全ては自分が知り得る良い情報を紹介したいという思いゆえだ。
 10月の阪急百貨店うめだ本店の「英国フェア」でも、カンブリアン・ウーレンミルのブランケットはよく売れた。私と猛獣上司とヒカルがウェールズの果てまで、時たま発狂する珍ドライバー、ニックと一緒に探し当てた幻の織物工場。そこで作り出されるブランケットを知った時の感動。
 クリスマスの暖炉をイメージさせる暖色系のチェック、ラベンダー色の砂糖菓子のような薄い紫色など、

「200年間、細々と続いた英国一小さな村の工場から取り寄せました。素晴らしい配色です!」

イメージと、お客様に説明しながらも恍惚となる。何ときれいな色、手触りだろうと、見入ってしまう。
 大判のテーブルクロスやブランケットは、デパートなどの広い売り場でどんなに広げて確認しても、周囲の空間や喧噪に吸収されて、個性がぼやける。けれど、ひとたびわが家に持ち帰り、日常の家具に組み合わせると、品質の良いものは際立ってくる。ベッドの上に敷くとベッドカバーにもなり、激寒の夜もお布団の暖かさが逃げない。
 阪急百貨店の椙岡会長ご夫妻も売場に来られ、2枚お買いあげ下さった。

 その後、椙岡会長にお目にかかった折、

「井形さん、きちんとお客様とコミュニケーションをとっていましたね。あれが大切なんですよ」

と褒められ、有頂天になった私。
 そう言えばと、ロンドンの鈍色フラットを思い返した。
 20代でなけなし貧乏旅行者の私は、歴史的建造物・古い住宅群の外観に、私ごときが泊まれるのだろうかと、恐れおののいた。が、いったんドアを開け、部屋に案内されれば、スプリングがいかれたベッドの上に無造作にウールの毛布がかけてあるのみ。シミだらけの白い壁同様、方々汚れ、穴の開いたみすぼらしい毛布。コイン式ガスストーブが切れた後、それを体に巻き付けるようにして眠った。
 天に伸びるジョージアンスタイルの建物。6畳ほどの狭い部屋だが、天井だけは吹き抜けのように高い。そんなうら寂しい部屋に無理矢理馴染むと、この年季の入った毛布までが似合っていると感じた。
 当時、

「この建物はうんと高いのよ。狭い部屋に不満のようだけど、3億円出しても買えないのよ」

と、オーナーのパキスタン人老婆に自慢され、このホラ吹きと、鼻白んだ。だが、彼女の言葉は本当だったと、最近やっと分かった。

 あの頃、古い住宅をどうするでもなく、薄汚れた毛布とともに貸し出していた老婆。そこで私は毎晩、高い天井を見つめていた。
 もし、あれがホリディ・インなどの一般ホテルだったら、私は今と違う人生を歩いていたかもしれない。ついでに暖をとるブランケットに、さしたる執着もなかっただろう。
 全ては持てないことから始まった。持たない人の切実なる夢。
 そんな思いが老朽マンションで起きた奇跡に集約されている。

 この階段の向こうにささやかな夢があった。
この階段の向こうにささやかな夢があった。
1979. LONDON




連載エッセイ「大丈夫!」と言ってくれ 


うるわしき10月に

○月○日

 政権交代以降、朝夕のニュースを見るのが楽しみになった。鳩山総理誕生より、組閣から各省庁への登庁劇まで、着々と政治主導のレールが敷かれてゆく。

 与党議員に対する各省庁の挨拶回り、知らぬうちに溜まった名刺の束、大臣のお茶の好みまで聞く様子。
 ミスター年金・厚生労働大臣の長妻氏が厚生労働省に初登庁した翌日など、拍手をしなかったお出迎え職員の冷ややかな対応を、マスコミは一斉に取り上げた。間接的な援護射撃だろう。
 私も、長妻氏就任の挨拶場面で
「前に詰めて下さい」
と繰り返す司会者に抗うように、後方に寄り固まる職員に腹が立った。まるで体育館で校長先生に怒られる前の小学生のようだ。
 政治家もリフレッシュされたのだから、官僚も……と望みたくなるのは無理な話か。
 膿を出しきる――会社も役所も学校も、マンネリ化した組織には、途方もない負のエネルギーが渦巻く。けれど、やれる人が本気で取りかかれば、だらけた事態は一変する。

 個人的には元経済誌記者の長妻氏や、私の文庫解説を引き受けて下さった馬淵澄夫氏(国土交通省副大臣)に期待したい。中間層が肉厚な組織は、持続性があり、息切れしないから。
 信念に基づいてやり切る政治家たちを見れば、何となく吹っ切れなかった有権者もこれで良かったんだと、信頼を引き寄せられる。
 ダイナミックな変革。今まで押さえつけられていた気運がはじける喜びと健全なエネルギー。失言、もうろう会見、投げ出しを見慣れた目には、小気味よく、うれしくてたまらない。
 それに比べて、二大政党の片割れ、自民党を見ていると、平家の落人のごとき哀れさが漂う。

 祇園精舎の鐘の声
 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色
 盛者必衰の理をあらはす
 おごれる人も久しからず
 ただ春の夜の夢のごとし
 たけき者もつひには滅びぬ
 偏に風の前の塵に同じ

(祇園精舎の鐘の音は、永遠に続くものは何もないと言っているように響く。釈迦が亡くなったとき、辺りにあったという沙羅双樹の花の色は、栄えたものは必ず滅びるといっているようだ。偉い人もずっとは偉くない。まるで春の夜の夢みたいに、あっという間の出来事よ。強い人もいつかは負けてしまう。風で塵が飛ばされるみたいにあっけなく)

――カメラの前だけでも景気付けに、議員総会をホテルとか、もっとメジャーな場所で開けばいいのに。議員に手を挙げさせて党首を決める細田氏の弱々しさを見てそう思った。彼らが戦後、政権支配を貫いてきたなんて、(それを国民も許してきたなんて)この惨状を見せつけられた今となっては、信じられない。
 国民は一転し、同情と自民再生に向けて、温かいエールを送っている。
 今しかチャンスはないのだ。

○月○日

 この号が発売される頃にはイギリスにいる。新型インフルエンザ騒動で何度か予定が変更になった「井形慶子と行く英国の美しいコッツウォルズ地方の家々とアンティークフェア・嵐が丘を訪ねる旅」だが、昨年に続いて数名の方々が今年もご参加下さり、感謝感激だ。
 ツアー中は、私自身がお客様と一緒になって買い物に走り、値切り、写真を撮る。時にはホスト役に徹しきれない至らなさまで寛容に受け止めて下さり、頭の下がる思いです。
 さて、今年に入り、中高年のウォーキング(山歩き)でたびたび事故が報じられた。今回は10月ということもあり、嵐が丘・ハワースのムーア(荒野)を歩く1時間にスタッフもピリピリしている。
 先だっても、主催旅行会社のヨシモト氏と最終打ち合わせをして、トップ・ウィズンズまでの道のりに若いスタッフを立たせた方がいいということに。すでに下見は終えているものの、道を確認する目印は、ポツリと立つ数本の老木のみだから。
 嵐が丘を歩いた後には、古都ヨークで電気自動車に乗り、中世の歴史を探訪する。そして「イギリス式 節約お片付け」(宝島社)でご紹介したノースヨークシャーアンプルフォースという小さな村に行き、民家に分宿する。考えただけでワクワクする。毎日駆け回ること必至でも。
 70代の女性から小学生の娘さんまで、旅の目的は人それぞれ。どしゃ降りの雨だけは降らないで欲しいと願っている。

○月○日

 ニコール・キッドマンに役作りを指導するハリウッド映画界きってのアクティング・コーチ、スーザン・バトソンさんとお会いする。ニコールが絶大な信頼を寄せるというので、緊張したが、挨拶を交わすなり、一瞬にして肩の力がほぐれた。
 60代にして何とチャーミングで、洞察力の深い女性だろうと思う。(詳しくは、12月号の本誌でご紹介します)
 いかにも多民族社会アメリカだなぁと思ったのは、抑圧してきた個人のコンプレックスや傷を、臆面もなく人前でカミングアウトさせる技術。このようなプロが著名人の尊敬を集め、社会的地位を確立している。彼女は疲れも見せず、こちらの話に耳を傾け、心理テストまでやってくれた。
「けったいな、自分の恥を人前でさらすなんて」
 同行したヒカルは、バトソンさんに向かって幼少の頃の悲しみを声高に訴える私に、驚いたはずだ。
 でもね、自分の真実をまだ隠してるでしょ、ちゃんと言いなさい――
「You still hide your truth! Say again !」
とバトソンさんに言われ、私とて雑巾を絞るように、洗いざらいぶちまけたのだ。
 赤面、冷や汗、ニコールトム・クルーズも、彼女と共にこれをやったのだ。
「そこの壁にいる幼いころのあなたに向かって約束するのよ」
と、バトソンさんは恥ずかしがる私に一歩も引かない。隣で順番を待つカオリ嬢は、どうすればいいのと、真っ青になっている。
 へたりそうな私に、バトソンさんは更に尋ねた。
「あなたを最も理解している人の名を言いなさい」
「実名ですか?」
「Yes 名前です」

 さぁ、困った。部屋には関係者もいる。皆の前で何と言えば……。その時、数日前、吉祥寺でしこたま飲みあかし、私が抽選で当てた墓を夜の風に吹かれ、共に見に行った父の顔が浮かんだ。
「父、そうだ My Fatherです
 我ながら名アンサーと、ホッとしたのも束の間、父への気持ちを聞かれた。長生きして欲しいとぼそぼそ答えていると、最後に言われた。
「あなたのお父さんへの想いを伝えて下さい! そこにお父さんがいます」
 えっ、穴があったら入りたい。今頃は稚内でウニ&ゴルフ三昧で遊びほうけている(だろう)父を想い、壁に向かって私は叫んだ。
「お父さん、どうか死なないで」
「Say, I need you !」
「お父さんが必要です!」
「Say again」

 横にはカオリ嬢、後ろには部下のヒカルが。ああ、もう死んでしまいたい。と思いきや、カオリ嬢は凍り付き、ヒカルは不謹慎にも居眠りしていたらしい。本当に良かった。ボーッとした部下を持って、今回ほど救われたことはない。
 脱力したものの、ヒカルが撮影した叫んだ後の私の顔は、バトソンさん
「アンビリーバブル!」
と驚いたように、まるで16歳。すっかり明るく、若返っていた。
 さすが、ニコールの師匠。つくづくアメリカ的だなあと、バトソンさんの偉大さに感心した。

○月○日

 11月に出版する「老朽マンションの奇跡」(新潮社)のゲラや口絵のチエックをしていると、あっという間に日が暮れる一週間だった。
 夕方5時を過ぎるとクマが編集室からやってきて、
「そろそろロンドンに電話する時間です」
と言う。春から始まった某プロジェクトもいよいよ大詰め。現地担当のサー・アルカポーネも最近、事態が思うように進展せずイラ立っている様子。電話をすると、
「井形さん、週末ロンドンに来れないか! 」
と、次第に声高に。横で会話を聞くクマは驚愕し、ひたすらメモを取っている。
 頑張れクマ。子どもが生まれ、君も父になったのだ。
 そんな戦いの甲斐あって、ついにプロジェクトは体を成してきた。
「今年はみんな頑張ったよね。でも、私も頑張りましたよ」
と、すっかり口グセになった私。
 昨今、弱肉強食、成果主義というアングロサクソン的仕事観はきな臭く見られがちだ。けれど、激動のロンドン社会と交われば、何を置いても結果を出せと突きつけられる。
 従来、私は、「おいしい」という言葉が嫌いだ。この姑息さに馴染めないのだ。たとえプロセスはまずくても、頭を使い、動き回って結果を追う。そんな日々に私たちは生かされているのではないか。

スーザン・バトソンさん
スーザン・バトソンさんは、ハリウッドで引っ張りだこ。



連載エッセイ「大丈夫!」と言ってくれ 


9月の残暑―感無量日記

○月○日

英語のおかげ 今年に入って出す8冊目の本が手元に届いた。
 色校の段階から出来上がりをとても楽しみにしていた『英語のおかげ かたことで暮らすイギリス流』(中経の文庫)だ。
 表紙のロンドン・ハムステッドの夕暮れ写真は、私が偶然シャッターを切ったもの。ビレッジ風情にあふれ、さっきまで人が歩いていたような気配もありで、とても気に入っている。
 候補の時点ではさほど思わなかったが、こうして題字とセットになると感無量の写真だ。
「英語のおかげ」でイギリスを知り、「英語のおかげ」『ミスター・パートナー』を創刊し、「英語のおかげ」で本を書き、人生後半の土台固めもできつつある。
 この本では、英語も含めた外国語は使ってなんぼの価値がある。それはつたなくても、たどたどしくても、明確な自分の目的を補強できればいいのだと書いた。
 先日もいきなりロンドンの不動産業者Mr.アルカポネから電話があり、リクエストレターをただちに、10分以内にメールで送れとせっつかれた。
 「えっ、でも、あの……」
と、もたもたしていると
 「住宅取材申請に間に合わないんだよ!
 ビジネス英語の書き方本か何か買ってくれば書けるでしょ! Immediately!」

と、ただ事ではない急ぎよう。それが届かないと、現在進行形のプロジェクトがご破算になるとわめき散らされた。
 泡を食った私は、いつもの若手スタッフ2名を呼び寄せる。エージェントから数限りなく送られてきたメールのあっちから、こっちから適当な文章を引っこ抜く。
 「この一行が必ずビジネスレターの頭に入ってくるから、入れといた方がいいですよ」
とクマが言い、私は
 「この権利だけは他に渡せないとつけ加えて」
と、ワープロを打つヒカルにせっつく。
 英国の大学で学んだ彼は、元来のんびり屋だ。他人にあれこれ指示されるのをひどく嫌う(特に英語に関しては)。けれど、この海を越えた交渉に社運を賭けているこちらの勢いにのまれたのか、恐ろしい集中力でとっとこ英文を書いていた。
 10分で要点をまとめたレターは完成し、ケンジントンの不動産会社に送った。
 結果はオーライ。受理されたメールを前にドッと脱力した。改めてプリントアウトしたそれを読み返したが、我ながら簡潔で要点をついた英文だ。3人寄れば文珠の知恵だとはよく言ったものだ。
写真 イギリスの情報誌を出していると、「日常会話レベル」の英語力はどうしても必要になる。加えて、現地ビジネスマンから貴族のおばさま、労働階級の見知らぬ人々まで、つつがなくやりとりをして協力を仰がねばならない。しかも国際電話で。
 英語は手段だ。大切なのはそれを使って何を成し遂げるかということ。本書には20代からこれまでの私の英語力を駆使したイギリスでの体験、そして世界中走り回るMP編集部の様子をつぶさに描いた。
 ぜひ、ご一読下さい。

○月○日

 何事をも受け入れられることは感動的だと思う。
 その結果、成功した、しないは別にしても、
 「分かりました。進めましょう」
と返される時、誰でも深く安堵すると思う。
 一日一回、些細なことでも願いが受け入れられれば、たちまち気持ちは好転する。不安なこと、心配の種など、日常の憂愁も晴れ晴れとする。
 今朝、立て続けに5つのことが受け入れられた。どれもこれも、これまで継続的に取り組んできたこと。うまくいけばいいなと思ってきたことだった。
 長年やりたかった仕事ができる。
 会いたかった人に会える。
 欲しかったものが手に入った。
 単純に良かったと喜べばいいのだろうが、伏線に不安の種が落ちる。この幸運を警戒する自分がいる。
 この勢いはニセモノではないか。落とし穴はないか。勢いに乗って先に進めばいいのに、A型ゆえの用心深さが仇になりそう。
 そう、「慎重になる」は上手い逃げ道かも。考えるフリをして、気がゆるみ、判断もぶれる。その結果、「時期尚早だ」「自分には過分」と、やっと手に入れた幸運を自ら破棄する人を何人も見てきた。それは謙虚ではなく、美徳でもない。
 受け入れられた。それは良いことが始まるスタートなのだと信じて、次へ進もう。

○月○日

写真 11月に新潮社より出版予定の原稿をついに書き上げる。内容は東京・吉祥寺で実際に見つけた500万円の老朽ガラクタ家屋を、わずかな予算でロンドン・フラットに作り替えたという体験的ドキュメントだ。
 自分で書いたくせに、何度読み返しても痛快、面白い。この半年間の悪戦苦闘の日々が、素晴らしいエネルギーを放出しながら行間から立ち上がってくる。
 「勢いがありますねー」
と、原稿を読んだ担当の秋山さん。
 ロンドンと東京、まるで業者のごとく中古住宅の現場を点々としてきた私。いつも大学ノートとデジカメをバッグに入れて記録を留めてきた。それをつなげた体験的ドキュメンタリーには実現可能な夢がある。
 暇があれば不動産屋に飛び込んで家やマンションを見る。取材というより、これは趣味だ。
 いつも山ほどの間取り図を持ち歩く私に、
 「いっそ不動産屋になりますか?」
と、マネージャーのTはうんざり気味である。けれど、何を思われても家は大好き。建築にはさほど興味がないが、ガラクタ物件には目がない。この世の果てまで素晴らしくかつ、安い家を内見し続けたい。

○月○日

  待ち合わせたレストランで、娘に唐突に尋ねられた。
 「ねえ、私が死んだらどうする?」
 娘にそう言われ、出産直後、宇宙人のようだった新生児の彼女を思い出す。
 25歳の私は、陣痛の痛みが抜けきらない体で、夜中に何度も起き出しては、ナースステーションに行った。
 ゆっくり動く小さな指を眺める。
 見れば見るほど奇妙な物体――これが私の赤ちゃんなのかと思った。
 真っ赤な顔の宇宙人は、日が経つごとに愛くるしく、人間らしく変わっていった。そういう赤ちゃんを見ながら、このまま大きくならないで欲しいと願った。
 そんなことを思い出しつつ、レストランを出て夜道を歩く。
 「実際にさ、私が死んだらどうするの?」
 何も言わない私に、娘はかなり不機嫌になってきた。
 「いつもそうだよね」
 何と答えればいいのだろう――。
 「私のことは何も分かっていない」
 外灯の下で心情を吐露する娘の瞳が、濡れているようでもある。
 あの日、薄暗い廊下からナースステーションの一角をじっと見ていた。水中花のようにゆらゆら動く手。つぶったままの目が一瞬開いて、もの珍しげに辺りを見た。確かに眠りから覚めた。
 Born to the earth――
 私はここよと、息を潜めて祈るように、じっと見つめていた。
 話せば、だから何よと言われそうだが、あの夜の出来事を私は忘れていない。ただ、それを言葉にできない自分が歯がゆいのだ。
 夜勤の看護婦さんからは、身体にさわるから、部屋で休むように何度も促された。
 「私達が見てますから大丈夫ですよ」
と、追い返された。
 それでも部屋を抜け出し会いに行く。あの気持ちをそっくり箱に入れて、私はいつでも娘に手渡したいと思っているのに。言葉にすると思い出話で終わってしまう。
 目まぐるしく今も動いている私の日常の片隅には、自分でも説明のつかない感情が取り残されている。そこに立ち帰るたび、自分には、人生の中でまだ乗り越えられない領域があると思うのだ。



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盛夏 紅茶入りアイスコーヒー日記

○月○日

 6月に帰ってきて、7月に入り再びロンドンへ。3泊4日の週末出張は時差ボケがやっと調整できた体にはつらい。
 8月以降も毎月のように行ったり来たりするのかと思うと、楽しさより、身体がおかしくならないかと少し不安。
 今、MPではあるプロジェクトを進行中で、(それはまだヒミツです)その頭となった私と上司Aは、ロンドン北部の隠れ家的B&Bにそれぞれ宿をとり、リサーチやら打ち合わせやらに奔走する。
 海外に出たとたん、(どこの国でも)たちまち元気になる私も、このところ「明日は6時起きです」などと言われると、たちまち脱力してしまう。フカフカの枕と白いシーツにくるまって、一日中寝ていたい願望をかなぐり捨てるのは大変なことだ。
 遅くまで資料を読んだり、明日の段取りをチェックするので、あっという間に1時過ぎとなる。机につっぷしたまま朝まで寝て、ベッドに横たわるのは目覚ましの鳴る前の30分だけ。
 こんな朝は眠気覚ましに紅茶にコーヒーを混ぜて飲む。紅茶の専門家が聞けば仰天するような荒療治だが。わざわざ氷をグラスいっぱいもらい、即席アイスコーヒーを作るのだ。
 カフェイン+カフェインで目覚めよ脳。

 それにしてもやっぱり、イギリスの朝食は美味しい。何十年通おうとも、年をとろうとも。グレープフルーツのシロップ漬けやミューズリー、フライドエッグにアツアツのマッシュルーム。甘すぎるヨーグルトをデザートに、仕上げは洋ナシを丸ごとむいて食べる。
 いつも、もっとゆっくりしたいと思いつつ、せっつかれるのが惜しい朝。
 ああ、夏である。ハムステッドを行きかう女性らは、なぜか白いロングスカートを風になびかせている。それが、きらめく街路樹の木もれ日に反射して、目にまぶしい。
「おばあちゃんからギャルまで、白いスカートがこの街のトレンドなんでしょうか」
 上司Aが余りに通行人をジロジロ見るので、次回はタンスの奥に放り込んだ白いスカートを引っ張り出そうと考える。
 訪れた街の人達の格好が気になり始めると真似たくなる――。
写真 ウルムチのバザールで買った幅広スカーフ、グアムで値切ったロコの短パン。ウラジオの毛皮帽。買ったはいいが東京で見ると、興ザメ、使えないものだらけだ。それを性懲りもなく買い続ける私。
 永遠の在庫になるかと思っていたが、ロンドンに持って来れば、どれもこれも違和感なく使えそうだ。多民族の街なのだから、ファッションにもスタンダードがない。
 仕事以外のことばかりがグルグル頭を回る。

○月○日

 上司Aがしつこく誘うので、時間を詰めて、ハムステッドのアンティーク・マーケットに顔を出す。2年前にクマと取材したアンティークのボタン屋さんだ。訪ねていくと、「イギリス式節約お片付け」(宝島社)の本を持って来られた読者の方が、ボタンをまとめ買いされたと歓待される。
 掲載写真にご主人はご満悦で、ビクトリアン時代の喪服についていたジェットの黒ボタンを安くゆずって下さった。
 透かし模様でレースのようなシルバーのボタン。カット細工でダイヤモンドのようにきらめくボタン。テーブルの上にこれでもかと、ストックを並べられると、頭が変になりそう。一つ一つ食い入るように見つめた。
写真 私は遺跡や絵画の前で立ち止まることはできない。それらを見続けることは苦痛なのに、ボタンなら、何時間でも見ていられる。
 結局、ボタン屋さんで1時間過ごし、30個近くの掘り出し物を買った。帰ったら糸通し穴にピンを通してブローチにしよう。
 移動中、地下鉄に乗っている間も嬉しさの余り放心状態で、1個ずつボタンを取り出しながめていた。

○月○日

 NHK・ラジオ深夜便「こころの時代――欧米人の日本観に学ぶ」が2夜連続でオンエアされた。1回40分という長さはかなり話しごたえがあった。
 上野さんという品の良いおじいちゃまディレクターは、どこか英文学で著名な出口保夫先生を彷彿とさせた。
 1回目は日本の会社の良さや工業製品の魅力、外国人から見た日本の生活や人々の魅力を、2回目は、日本の教育の盲点、近代史の欠落を、極東、アウシュビッツ、イギリスに取材に行った時のエピソードを織り交ぜ話した。
 早朝4時からのオンエアというのに、さすが深夜便。終了後、沢山のメールやお電話がNHK放送センターに入ったそう。

 休み明けに出社すると、編集部の方にも聴取者の方々から激励のお電話など続く。
 ディレクター上野さんより連絡をいただき、反響を受けて早速、雑誌「ラジオ深夜便」(10月号9月18日発売)に放送内容の掲載が決まったとか。嬉しい。
 実は、シベリア抑留ワルシャワのゲットー跡地についても触れたため、どんな風に聞こえるのかを私自身、朝4時に起きて聞いていた。

 早口過ぎるな、少し訛ったなと反省しつつも、こんな時間にじっとラジオを聴く人とは、どんな人かと思いめぐらせた。
 早起きの高齢者、タクシーの運転手さん、(早朝)散歩の達人……。
 よく、テレビはお茶の間相手だが、ラジオは聴いている人にマンツーマンで語りかけるようにといわれる。
 今の日本が世界津々浦々の外国人を通してどのように映るのか。外側からの評価や価値をエピソードをてんこもりに伝える。言いたいことが蓄積していたので、喋り出すと止まらなくなったが、反響の一つひとつに改めて感謝。

○月○日

茂木さんと 脳の本シリーズで一躍時の人となった茂木健一郎さんにお会いした後、久々、横浜の中華街で編集部のヒカル、カオリ嬢と昼食。普段は弁当10分の世界なので、四方山話に盛り上がり、脳ミソの洗濯ができた。
 有識者や文化人と呼ばれる方々の中には、イギリス文化に慎重論をとなえる人も多い。「礼賛」「観察」の違いはあるか。日本の立ち位置は――などなど。
 考えてみると、上京して以来、郷里長崎に帰る以上にイギリスに飛んでいる私。イギリスはとうに「好き」「憧れ」を通り越し、今や生活拠点になろうとしている。
 だから、時々返答に困ることもある。
 唯一つ、はっきりしているのは、生き方、価値観の手本をどこに、誰に据えるのかは人それぞれ。私は、イギリスを通してたくさんのことを見聞きし、それをもとに仕事も人生も構築してきた。
 そんな人生の足取りはつまづくこともあったが、振り返ってみて、とても好きだと思える。

○月○日

 待ちに待った選挙が8月30日に決まった。長らくお待たせされましたという感じ。週刊誌の麻生政権を表すキャッチも「ゾンビ」「脳死」「死に体」などひどいもの。
 その一方で、いくら地方選とはいえ、都議選の投票率の低さには正直驚いた。54・49%とは、都民有権者の半分近くが選挙を放棄したということだ。政権放り投げ首相に、選挙放り投げ国民。投げて、放って、見捨てられた政治は、そして低迷する社会の尻ぬぐいは、結局自分に返ってくるのに。

 ジャーナリストの友人と話をしていたら、彼は、「3回続けて選挙に行かなかった若者からは、3回選挙権を剥奪すればいい」と言った。私はそれもいいが、いっそ交通違反のように罰金をとるべきだと反論。
「一回5千円。選挙に行かない有権者を仮に投票率、67・51%(小泉郵政選挙時)に照らして考えると、棄権者は約3345万人。罰金で1672億円の財源が確保できるでしょ。
 これを元金にすれば新しい保育園が少なくとも1672ヶ所に設立できる(1ヶ所1億円試算)。これを各都道府県に振り分けると、各々35ヶ所もの保育園ができるのだ。
 あるいは、廃墟と化した公団の修復費用もひねり出せる。すると、格安集合住宅に無抽選で入居できるかもよ。北欧のように女性が働けば、労働力は確保され、家計も潤い、消費も活発になる。
 高齢者や単身世帯向けの安い住宅が増えれば、生活不安も払拭されて、いいことづくめじゃない」

と言った。
 彼は短絡的だと苦笑いしたが、私は大真面目だ。

 前にも、「私の一票は4000万円の価値」があると書いた。
 今回は、喉から手が出るほど、あなたの一票を欲しがっている人がいる。もし許されるなら捨てられる一票を何としても買い占めたい。実は、じり貧選挙に追い込まれた政治家(あるいは政党)にとって、投票率が下がることは、まさに「恵みの雨」なのだ。
 熱心に選挙に走り回る集団、知名度にあぐらをかく政治家先生にとって、最も脅威なのは、ふだん投票しない人が立ち上がること。読めない浮動票が民意を反映する瞬間なのだ。
 その時、政治家として国政を司るメンバーは大きく変わる。浮動票はムードに流されやすい反面、縛りのない一個人の意志を反映するからだ。
 ある政治家が先日も「投票率が上がると困る」と公の場で発言していた。本心だろうが、こういう人には今度こそ去ってもらいたい。

 もう好き勝手させない。日本を放り出さない。
 そう腹に据えて、多忙な8月最後の日を迎えたい。
 ちなみに私はいつも期日前投票に行く。少し早起きするか、仕事を早く切り上げ投票所に出向くと気分がいい。
 夏の予定はコロコロ変わる。さっさと一票入れて、じっくり結果を見つめよう。日本は大きく変わらなければいけない。いや、私達が変えたいのか否か、今回の選挙は突き詰めれば、その一点のみが問われているのだ。



連載エッセイ「大丈夫!」と言ってくれ 


「イギリス式  小さな部屋からはじまる『夢』と『節約』」の思い「イギリス式  小さな部屋からはじまる『夢』と『節約』」の思い出

「人生で夢をかなえて生きていこうと願うことは『甘ったれた』『現実を見ない』世迷言に過ぎないのでしょうか? そんなはずはありません」

――イギリス式 小さな部屋からはじまる「夢」と「節約」(講談社+α文庫)より引用

 「イギリス式 時給900円から始める暮らし」を加筆修正した新刊。冒頭の文章に目を落とすたび、貧しかった大学時代。娘と共に生きることに疲れ果て、ロンドンに脱出した20代の頃の思い出がよぎる。
 親元にいた頃は「将来」とは、ゆったり流れる大河のイメージだった。陽光に照らし出され、白くかすむ川面。理想とする仕事に就いて、誰かを好きになり、結婚式を挙げる。主婦として幸せに暮らす親戚のおばさん達とは少し違うかもしれないが、ゆく手にはいいことがたくさん待っているのだと思った。
 けれど、現実は私が思った以上にみみっちく、何をするにもお金の問題が大きく立ちはだかった。


 私の一人暮らしのスタートはアパートではなく、農家の離れだった。月5万円の仕送りでやりくりするために、近所の雑貨店でポテトチップスと食パンを買い、それを夕食にする日々。
 ラジオから夕方になると流れてくる、赤いカードの丸井提供「夜と呼ぶには早すぎて」を聞きつつ、トーストを食べる自分。親にうるさく言われない分、最初の1ヶ月は飽きもせず楽しくやり過ごしていた。
 けれど、大学で友達ができ、交友関係が始まると、東京・実家の子と上京した地方出身者のギャップが骨身に染みた。

 「私は自由が丘のお嬢様なのよ」が、口癖の同級生は、施しのように家から余り物の海苔やお菓子をせっせと運んでくれた。長崎に帰れば私にも海を見渡す広い自分の部屋があると思うと、悔しかった。
 父親は会社役員だし、社名を名乗れば「ああ、あそこのお嬢ちゃん」と、店でツケ払いもできた(したことはないが)。
 小さい頃、祖父とともに、春はカステラの文明堂が所有する美しいお屋敷の広大な庭でお花見をした。父に連れられてゴルフ場に行けば、盛大な子供のためのパーティーも催されていた。
 ところがどうだ。今やトーストにポテチの世界だ。農家が密集する丹沢のふもとの村では、誰一人私のことを知らない。
 都市型農家のすごさは、ほおかむりしたおばちゃん達が、作業が終わるとどこぞの奥様のように外車を運転し、お食事に出かける姿が珍しくないことだ。
 長崎の農家や漁村のおばちゃん達は、いつも茶色い爪をして、土や潮の匂いを漂わせていた。それは、それなりのステータスがあり、誇りや職業意識がみなぎっていた。
 だから人が違えども、私にもその人の背景が簡単に推測できた。それが安心につながり、余計な垣根を作らず、誰の中にも簡単に入っていける原動力となった。
 それが首都圏になると、まるで外国に放り出されたように何もかもがあやふやになり、自分の立ち位置が分からなくなった。
 自分はもっと積極的だった。自分はもっと明るかった。自分はこうではないのだ、本来は。
 こういう感覚は、もしかしたら東京ネイティブにはわからないだろう。地方出身者にとって、東京と首都圏の境は存在しない。十把一絡げに(たとえ丹沢のふもとであっても、所沢でも、津田沼でも)それは東京と呼べるのだ。そんな地元民と外者が、知らず知らずのうちに融合していく社会、それが東京なのだ。
 まるで、私は自分自身を開拓民のようだと思った。畑に囲まれた中途半端な都会暮らし。長崎から遊びに来た友人は、私の部屋を見て内心がっかりしているのだろうなと、いつも気後れした。
 そう、この「気後れする」という感覚こそ、私の20代最大の課題だった。そこに強いコンプレックスが生まれ、いつか世の中をアッと言わせる自分になるのだとイギリスに旅立ち、編集者の道を歩んでいった。
 かたわらに赤ん坊の娘が居ようとも、近所に住む民生委員のおばさまに「社会の脱落者」という烙印を押されようとも。私は東京という畑で芽を出し、いつか大木になるのだ。
 青臭いと思われるかもしれないが、毎日そんな自分の内側から聞こえてくる叫びと格闘していた。


「1万円の納屋からスタートし、出版社の女社長になった著者、感動の第一歩!」

「多分、もしや、この本(講談社)の担当・津田さんのキャッチコピーではあるまいか」
 某書店でこのポップを見つけたスタッフのTは、そうメールしてきた。
 そうかぁ。ここがミソなのだなと、改めて思った。若い頃、ビンボーだったり、離婚したり、退学したり、仕事にあぶれた悲惨な経験は、やがて齢をとって社会的に認められはじめると、その人の経歴より補強し、ある種の武勇伝に一役買う。あの頃の自分には想像もできなかった世間のカラクリは、大人の女性になった今、初めて素直に理解できる。

 逆にこういう人は辛いハンディを背負うのではないか。

●生まれた頃――スウィートベイビー(顔の可愛い赤ちゃん)
●幼少時代――パパとママとじじばばにかまわれ続ける
●中高時代――ひと夏ぐらいの留学と○×コンテスト(大会)優勝経験有り
●大学時代――サークルの長、もしくはバンドの発起人
●就職――内定を取り、そこそこ希望の会社に入る
●プチ昇進――グループのまとめ役(上司に目をかけられる)
●円満退職――就職2〜3年で自分探しを始める
●プレ海外体験――やっぱり語学留学、何かが見つかるはず
●帰国・再就職――働きバチの上司に違和感
●転職――アルバイトと大好きな○○の資格取得はどうだろう
●30代突入――不況、実家に戻る(親のため)
●40代手前――自分探しは続くが、依然はっきりしない自分に疲れ果てる


 私が考える一つのシュミレーションを作ってみた。何不自由なくどちらかといえば、学生時代、周りに羨ましいと思われてきた人の中には、頭で将来のイメージを漠然と抱くため、自分の理想をつかみきれない。現実になかなかフックがかけられず、今日の一歩が踏み出せない人が多い気がする

「日本では『会社にしばられたくない、就職しないで自由に生きたい』『ほんとうに自分に合った仕事をしたい』『夢をかなえたい』という若者の風潮にマッチした、派遣やフリーターという働き方が市民権を得てきました。

――イギリス式 小さな部屋からはじまる「夢」と「節約」(講談社+α文庫)より引用


 それがどんな悲惨な結果を生むのか。今の時代、親も子も骨身に染みて感じているはずだ。自由な生き方に不可欠なテンポラリーな働き方は、日本中に雇用不安の種をまき散らした。そのクサビを断ち切るために、理想とやるべきことのバランスをとる作業を、私達は始めなければいけない。
 この本は、悩み多き娘のために、そして、いつも私のつたないアドバイスを求めて下さる読者の方々に向けて書いたものだ。
 トースト&ポテチの夕食からイギリス人のシンプルライフに到達するまでの道のり。それを知ったときの自分が生まれ変わったような感動。ああ、暮らしとはこんなに面白いものなんだ。イギリス人のシンプルな暮らし方の神髄。私はそれに気付いた時から、加速して変わっていく。
 10代から今に至るまで、一貫して節約し、したいことを叶え、夢に近づくことは同時進行だった。人生で一番辛かったのは20代だったと、常に周囲に話してきた私が思うに、始まりはいつも迷いと、ある種の悲しみがつきものだ。
 私の率直な足取りを綴ったこの作品。イギリスの人々から手渡されたメッセージの数々は、時折切なくなる遠い日の風景が混ざり合っている。




連載エッセイ「大丈夫!」と言ってくれ 


インフル未満

○月○日 午

 NHKで生中継の民主党代表選に見入る。自分が票を投じるわけではないのに、私が議員ならどちらを選ぶか、最後の瞬間まで思案する。
 以前、MPの「政治と暮らし」という政治家の生活感をあぶり出すシリーズで、鳩山由紀夫氏、岡田克也氏、お二人の結婚生活や暮らしぶりについてインタビューした。
 鳩山さんが、余りにざっくばらんに結婚までのいきさつを話されるので、肩すかしにあったような気がした。気さくな人というより、人付き合いにあれこれ策を講じない、のんびりした人といった感じだった。
「僕も小沢さんも、人前で話すのは苦手なんです」と言われ、政治家を続けるのに大変な労力を注ぎ込んでいるのだろうと思った。
 一方、岡田さんはまんじゅう一つ受け取らない潔癖主義。ファジーな、なあなあ感覚は一切なし。今もって、ご自身の結婚生活についてを話してくれたことが信じられない。
 お会いした岡田さんの第一声は、「鳩山さん、ずいぶん色々と話されてましたね」だった。緊張する私を前に、ご本人も鳩山さんを意識して必死に見えた。
 インタビューを始めようとすると、「出てくれ」と秘書を退室させ、こちらの聞きたい奥様の話、アレコレについて一生懸命答えて下さった。たとえ、それが鳩山さんの1/10としても、慎重な人ゆえ、しぼり出したエピソードの数々は相当貴重。
 話してみて思ったのは、お二人ともそれなりの魅力と才覚に溢れている人物ということ。
 ところが党首となればどうか。あわよくば次期首相になるかもしれない代表選だ。オープンマインドVS頑固者。小沢氏との距離感だけでは計れない将来性。つまりは人を動かせるかどうか、党首力の勝負になる。
 それはどっちだろう。
 結果は鳩山氏当選。そうだろうな、と思った。でも惜しい気もした。やらせてみたいでは済まない、待ったなしの厳しい社会情勢は百も承知。だが、岡田さんの愚直さ、生真面目さを「芯」と見れば、漂流する日本が一番求めているものを、岡田さんは一瞬でも垣間見せてくれる気がした。

責任を取ること。
やり遂げること。
真剣なこと。

 日本には真剣な人が必要だ。オバマ大統領の演説をTVでかじりついて見たような、そんな興奮に私達は相当飢えている。

○月○日 深夜ごろ

 最近、ニュースをつけっ放しで眠るクセが直らない。小康状態だった新型インフルエンザが関西で爆発。倍々で増える感染者に、編集部でも早速ガイドラインを作り、皆で確認する。
 こうなると、メキシコ発第一報を受けて、初めに備蓄しておいたマスク、薬、消毒液がありがたい。営業部のOが大阪に出向いて仕入れてきた消毒スプレーも重宝。入室ごとに皆、手を除菌。トイレに置かれた紙コップでうがい。正しい手洗いのデモンストレーションを社員を前に行う。過剰な反応と言われても、月刊誌を発行する我が社で、全員が一斉に発熱したら作業は止まる。予防と対策は、今だからこそ冷静に呼びかけられる。
 それにしても、冬場、風邪を引く者とひかぬ者に分かれるのはなぜだろう。一昨年、インフルエンザが社内で流行した時も、移らなかった人には共通の特徴があったと気付く。

その【1】 魚、野菜を食べるなど、幼少から食生活が良好だった家庭の人。
その【2】 僅かな具合の悪さでも、すぐ病院に行き、薬をもらう。病院ギライでない人
その【3】 疲れたら祝日、日曜日に出歩かず、寝だめする人
その【4】 ファーストフードが苦手な人
その【5】 仕事に意欲的な人

 ザッと挙げてみると、とどのつまりは自己管理だろうか。
 若い人たちが興味を示す「素敵な暮らし」とは、おしゃれな部屋に住み、美味しい手料理を作り、ヨガやジムですっきりナイスバディを保つことに特化し過ぎてる気がする。病気は対岸の出来事、健康でいるための医学的知識に乏しいと、しっぺ返しがくるのに。
 若さ=健康=病気しないを、今回のインフル騒動はひっくり返した。若者の免疫力が弱くなっている。それは食生活や暮らしぶりと絶対に関係あると思うのだが……。

○月○日 朝

 終電帰りが続いて、背中と腰が痛くなる。朝起きてもだるさが抜けず、嫌な予感。
「東京で3番目の感染者になるかも」
 インフル対策課、薬の番人オノデラ女史に打ち明けると、早速、近所のクリニックを手配してくれた。熱はないし、ノドも痛くない。けれど、どこか変。まるで風邪に移行する前の不穏な体調がジワリと体を蝕む。
インフルチェックを嫌がる医師に「私が感染したら会社は封鎖、全員自宅仕事になりますから」と、必死で頼み込んで検査をしてもらった。
 結果、陰性。問題なしとのこと。
「今日は特別ですよ。今後、おたく(編集部員)の誰かが本当に発熱したら、保健所に行って下さいよ。うちには検査キットがもうないのですから」
 薬もキットも都に回収された。マスクも手に入らない。町医者は何もできない。発熱センターはモノ不足。患者はあちこちにたらい回しにされるでしょう。だから感染が広がるんだ。
 医師は私を前にグチをこぼす。話を聞くうちに私も途方に暮れた。なぜ、検査キットやマスクを早め早めに増産しないのか。服や家電でなく、命を支えるものを――。
 クリニックの待合室はガラガラ。皆、感染を恐れて病院にも足を踏み入れないよう。若い看護師は誰もマスクをつけていない。他人事ながら心配になる。
 ウイルスという、見えないどす黒いものが、社会に浮遊している不安。死にはしないからと言われても、満員電車や人混みは恐い。加えて、マスクのおかげでいつもスッキリしない感じが続く。頭がボーッとして五感が冴えない。思えば、毎年花粉症の時期には、マスクをつけることが煩わしくて仕方なかった。
 早くウイルスが恐れをなす高温多湿の夏になってほしい。あのベトベトした湿気が待ち遠しいなんて、生まれて初めてのことだ。

○月○日 昼

『イギリス式節約お片付け』(宝島社)の見本が届く。「裏表紙の方が表紙より色鮮やかだ」とアシスタントのクマが言う。
 多少の気になる点があっても、いい。出来上がった見本を手にとって開く瞬間があるからこそ、書き手はやぶを分け入るような孤独な作業がこなせるのだ。
 イギリス以外にも、今回は撮り下ろし写真をふんだんに使って、ラベンダーで有名なクロアチアの薬局、イギリスで最も美味しいケーキと感嘆した農家の主婦のレシピまで紹介した。いずれも経済的でおしゃれ。収納実例もてんこもり。
 改めて読みつつ、写真の仕分けやセレクトに時間はかかったものの、イギリスの人々の生き生きした表情に今さらながら見とれる。
 特に裏表紙に載っているおばあちゃん。パーマのかかった短い髪。赤いセーター。年季の入ったエレガントな腕時計。彼女とはヨークシャーのはずれ。小さな村で出会った。
 ああ、淡々とした日常を送っている人の幸福感に負けそうだ。「普通が一番難しい」そう思うこの頃だから。

○月○日 夕方近く

写真 週刊朝日のコラムを書き上げ一息ついていると、週刊文春の巻末グラビア「おいしい! 私の取り寄せ便」に、何か井形さんが気に入っている食品を推薦して欲しいと依頼がある。岡山の「匠プリン」、長崎の胡麻豆腐、鹿児島のさつま揚げ、悩み抜いて、厳選してこの3つを推薦した。
 朝から晩まで一日中、仕事をしている私が一番気になるのが、どこで「良いもの」を食べるかという食事のバランス。
写真 美味しさもさることながら、無添加、材料の良い地方発お取り寄せ食品は、皆で分け合えるから重宝する。仮に送料込み五千円のものでも、5人で分けて持ち帰ると一人千円也。人混みに押され、スーパーのレジで並ぶことを考えると割安感があり、時間の節約にもなる。福井から三千円の海鮮セットを取り寄せた時は、5人で分けても食べきれない干物やカニが箱一杯だった。
写真 そんなことを取材に来られた記者の方に話しつつ、お取り寄せが増えれば、地域産業も潤うのにと思った。
 美味しいものはレストランでなく、地方の市町村にある。誠実に職務に励む人たちが丹誠込めて作った、大量には作れないけれど本物のおいしい物に、都会人はもっと慣れ親しむべきと思う。

○月○日 そして夜

 さて、家族単位から職場単位へと、お取り寄せもインフル対策もすんなり移行できている。これが情に厚く、居心地のいいかつてのニッポン式会社の良き点か。会社は家庭の延長のように、助け合い、分かち合う。
 最近、一つの会社でずっと勤め続けたいという若者が急増しているのも、寄るすべのないフリー生活の怖さを、今回の不況で突きつけられたからに違いない。
 グローバリズムでかつて日本の会社文化は断ち切れになった。それが見直されてこそ、経済復興も果たせるというもの。
 何といっても「人」が資源の国な
のだと、「匠プリン」をチビチビ食べつつ考えた。






連載エッセイ「大丈夫!」と言ってくれ 


それでも、一緒に

○月○日

 朝から恩師リチャード氏にインタビュー。いつものようにスタバで予習しようと立ち寄ると、「まだ開店してません」と、準備する店員に素っ気なく言われる。外は小雨でひどく寒い。中で待たせて下さいと言うと、すんなり通りホッとする。
 リチャード氏とICU(国際基督教大学)のあたりに出た中古物件について語り合う。価格表を見せるとこんなに下がっているのかと絶句。イギリス人らしく家の話しはエンドレスに。
 終了後、娘と待ち合わせしていたので、近所でお昼を食べることに。
「どこがいい?」
と聞くと、
「近くのカフェ」
と言う。
「飲茶も捨てがたいな」

と言うと、でも、コーヒー飲めないよと娘。
「あんたはどっちがいいの?」
「合わせるよ」
「どっち?」
「どっちでも」

 相手に気を遣い主張できないのは子どもの頃からの習性。そんな娘がふびんでもあり、時々「ハッキリせい!!」と怒鳴ってしまう。
 久々のおしゃべりは、彼女の近況について。開かなくなった窓のこと、男友達のこと、2人して大好きなクリニックの医師のこと。前はしょっちゅうケータイを見ていたのに、今は私の顔をじっと見ている。
 長年私の仕事を手伝うも、体調を壊し会社休業中の彼女は、寄るべきものを失くした所在なさが、ちらほら見え隠れする。
 2人でリフォーム大詰めの私の廃屋マンションへ。今日はタイル貼りの打ち合わせ。大工さんらが5人がかりで上へ下への大騒ぎ。次から次に質問され、引っ張り回される私の後ろから彼女は、じっと部屋の様子を見ている。
 一ヶ月前は下水の臭いがしていたたまれなかったのに、完成間近の今は、レンガや木の匂いで居心地がいい。
 家は人が住んでなんぼ。使わなければ、関わらなければ命のともしびが弱く、弱くなる。娘もそうだ。話して、耳を傾け、時間を共に過ごさなければ、蚊トンボのようにか細くなって消えてしまいそう。
 終了後、彼女を近くの宝飾工房に連れて行く。30代くらいの青年が町はずれでひっそり作業している小さな工房だ。
「耳に何か付けようかな、でも前にかぶれたし」
と、娘がショーケースを見ていると、青年は
「金属アレルギーかどうか、このイヤリングを付けてみて。でも、片方だけだから、うっかり付けっぱなしで出かけるのが心配です」
すると、娘はうれしそうに
「心配してくれてありがとうございます」
と言った。そうか、娘はこんな言葉を待っていたのか。適切な声がけ。しつこくもなく、優しさが伝わってくる。この青年のように、なぜ、私は彼女に接してこなかったんだろうと、胸が痛む。
 2人で駅前のコーヒー屋に。隣を見ると、ゲラを広げた男性が座っていた。反対側は女性編集者にペコペコされて雑誌の企画を始めるらしい、これまた作家先生。どちらも名前は分からないが、吉祥寺には作家がウヨウヨいる。それにしても、このサンドイッチに居心地悪く、娘も肩をすぼめていた。
 女性編集者は周りのことなどお構いなしに、目の前の作家を褒めちぎっている。
「我が社の編集長も、ぜひ、先生にご登場いただきたいと、申しておりました」
「私の知る情報はグーグルでも見つかりませんよ、ハハハ」

娘が口をへの字に曲げる。
 先生コールを聞きながら、この編集者、かなり気を使ってそうと思っていたら、「先生」が退場した途端、お辞儀をするや、ドカッと椅子に腰をおろし、取り出したタバコをスッパァーと。たちまち放心状態。
「先生、何とぞよろしくお願い申し上げますぅ」
と、タバコスパスパのギャップに、娘と目配せして笑う。
 別れ際、家に帰る娘は
「仕事がんばってね」
と改札まで見送ってくれた。
「ママのとなりにいた作家さんの校正すごかったよ。細かい表現に全部赤入れてたよ。ママも見ればよかったのに」
 何かひと言、説教じみたことを言って別れるのが彼女のスタイル。身内であれ、他人であれ、これまで近くで仕事をしていた人がいなくなるのは淋しいもの。彼女とどうやればこれからつながれるのか考える。娘はそれを策略だと言い、私は情と思う。

○月○日

 取材を終え、社に戻ると、ビルの入口にヒカルがぼんやり立っていた。何だろうと声をかけると、
「どれを買おうか迷っていたんです」
と、ジュースの自動販売機を指差す。
「頼むよキミィー、さっさと席に戻りなさい」
と言いつつ500円玉を渡す。彼は人を豆粒のような目でじっと見るクセがある。少し前、そのつぶらな豆粒が爆竹のようにバチバチ火花を散らしていたっけ。いや、炎を上げる火炎瓶のようだった。
 20代はいろいろあるのだ。
 来週には結婚式を挙げるクマは、たががゆるむとラリパッパ。もうすぐ生まれる我が子のことで、喜び度数200%、バナナをつかんだ子ザルのようにはしゃいでいる。

○月○日

 凍りついた朝。出勤途中、吉祥寺駅の売店で新聞を買おうとしたら、ビックコミックを先につかんだ青年にかすかに接触した。彼は思いきり雑誌を振り上げ
「 このやろう! ざけんなよ」
と、私を見据えた。その瞬間、売店のおばちゃんも、周りの客も、そして当の私も息をのんだ。
 体を突き抜ける恐怖心、殺されるかもと、本気で身構えた。目の玉すら動かさず、その男が去るのを待った。こうやって命を落とす人もいる。事件は起きる。そこに理由はない。たまたま居合わせたから、いや、もっと、もっと用心すべきだったのだ。朝だから気が抜けていた。私が悪かった。そう考える自分が情けなく、どっと疲れた。

○月○日

 新潮社の秋山さんと次作の打ち合わせに出かけ、じっくり話をする。(ただし、変なおばばが給仕する西友の喫茶店!)場所はイマイチでも、テーマがふくらんだ。よし! バッチリ。
 戻ると講談社の津田様からお電話が。6月に出る文庫のことでいくつかの提案あり。いつにも増してシャープな指摘だ。勢いづいて机に向かってゲラチェック。テキパキやるのだと言い聞かせつつ、電話がいくつか入るともうアウト。
 編集部をのぞくとヒカルとクマが、国際電話に頭を抱え込んでいる。毎日頑張ってるんだなぁ、みんなは。よく働くことだ。私も机に戻らねば。時計を見るとはや11時。
 こうして時は過ぎてゆく。どんどん時は過ぎてゆく。そこに充実と言い切れない、しんみりとした悲しさがちらつくのはなぜだろう。



連載エッセイ「大丈夫!」と言ってくれ 


義父の思い出

 夜半、編集部で原稿を書いていると、2週間前に入院したばかりの義父が亡くなったと連絡がある。突然のことに頭がついていかなかった。
 再婚した私には、2人の義父がいた。10年前に他界した静かな職人だった夫の父と、20代の初め、一年程連れ添った前夫の父だ。
 二人は正反対の性格。
 まだ子どものような若い私の姑となった前夫の父は、かっぷくの良い体と、誰かれ構わず声をかけて回る大らかな人だった。
 そのような性質は、時に常識破りの行動に出る私をも包んでくれた。
 臨月にバイクに乗って、雪が凍ってカチカチの道を、中野から義父母の暮らす世田谷の上野毛まで走ったことがあった。友人にもらった原チャリを見せたかったのだが、常識派の前夫は私の奇行に怒り狂い、仕事先から実家に電話し、彼女に注意してくれと立腹のようだった。
 そんなことはつゆ知らず、私を待つように家の前には義父が立っていた。寒いのに何だろうと思っていたら、
 「いらっしゃいませ、若奥様」
と、とぼけたあいさつ。中古の原チャリを見せると、
 「しかし、けいちゃんもすごいねー、お腹の子も大物になるぞー」
と、笑った。

 娘を連れて離婚する時、
 「互いに若いから、再婚した時のために涙をのんで孫とはもう会わない」
と言う義父母に、離婚は私達の問題、娘にとっては本当のおじいちゃんだ、と、これからも行き来したいという私の意向を最後は汲み取ってくれた。本心では淋しかったのだろう。
 「けいちゃん、別れたってさー、いつまでもおじいちゃんなんだから、
  何かあれば遠慮せず来なさいよ」

 元警察官の迫力と面倒見の良さで、娘が熱を出し、保育園を長期欠席する時は、娘と二人、義父母の家に転がり込み、私は仕事を続けた。
 義父母は娘を他の孫と隔たりなく可愛がってくれ、娘は元夫の親戚一同と旅行に行ったり、花見や花火大会にも出かけていった。
 そのような付き合いは、私が再婚後も変わることなく、義父は突然電話をかけてきては、
 「どう、けいちゃん、うまくやってる?」
と、上機嫌でおしゃべりを続ける。
 私が留守の時は夫と話し、今度、飲みにいらっしゃいと誘う。
 「おじいちゃんと散歩に行ったら大変だよ。誰かれ構わず話しかけるから、
  すっごい時間かかるの」

と言う娘の話を聞いて、分かる分かると笑った。
 このところは直接話すことがなかったが、変わりはないと聞いていた。

 ところがある日、元夫より親父が入院した。完治したはずのガンが再発していた。あと数ヵ月だから、医師から元気なうちに会ってほしいと言われた、と連絡があった。
 病院のロビーでおち合うなり元夫は、病気のこと、親父には知らせてないと、沈痛な声で言った。入院してこのかた、頑固に何も食べない。おふくろたちも気落ちしていると肩を落としている。
 話を聞いた私は、義父と何を話せばいいか戸惑った。もう10年以上会ってない。けれど心配よりも、朗らかでとぼけたあの義父に会える嬉しさの方が勝った。
 病室に入ると私を見るなり、義母は
 「まぁ」
と駆け寄ってくれて、よく来てくれたわねぇと言うと、ベッドに仰向けに寝ている義父に
 「あなた、慶子さん、来てくれたわよ」
と、呼びかけた。
 「え、誰?」
と、薄目をあける義父に
 「慶子です」
と近くでいうと、
 「えー、何、けいちゃんなの」
と驚くや、こぶしを握り締めたまま、泣き顔を見せまいと、腕で顔を覆った。
 「お父さん、昔より太ったでしょ
と言う私に、義父は点滴を入れてない方の手を差しだし、私の手をしっかり握った。
 そうして、
 「けいちゃんの名前を新聞で見るたび切り取ってさ、大したもんだよ、あんたはさー」
と、いつもの調子でペラペラと喋り始めた。
 小一時間ほど話し続けた後、
 「あんたの長崎の実家にいた、すぐ噛みつく犬、塀を乗り越えないよう
  ホースをくくりつけられて庭を走り回っていたよね」

と、懐かしそうに語った。もう20年以上昔のことなのに。その記憶力に驚いた。
 帰りしな、お義父さんに褒められて、すごく励まされたと、お礼を言うと、義父はまたね、と手を振った。

 それからわずか2週間で義父はこの世を去った。通夜には大勢の人が詰めかけた。
 その中には若い頃、万引きしているところを何度も義父に補導された男性もいた。おじさんは息子のように俺をかわいがってくれたと、その青年も親族に混じって斎場に泊まった。親類縁者の中には、「あの人誰だろう」と、いぶかしがる人も大勢いたが、男性は我関せずと、独りで酒を飲んでいた。

義父の置きみやげはまだある。
 初めて知ったのだが、義父は警察で長く鑑識をやっていたようだ。何でも覚えているのは、職業柄だったのか。また、年も本人が言うよりずっと上だったらしい。
 「墓石には86歳、位牌には84歳、骨壺には85歳と書いてあって、
  納骨の時、みんなで訳分かんないねと笑ったのよ」

と、娘もあきれていた。
 推測するに、お見合いの席で義母に一目惚れしたという義父は、年上なのに無一文の自分を恥じて、なるだけ若く見せたかったのだろう。
 入院中も、最後まで戸籍謄本など年齢の分かる書類を袋にしまい込み、秘密を死守していたというから。
 「おじいちゃんは、最後まで不思議な人だったわね」
と、義母はただ一人、淋しそうにつぶやいた。
 葬儀の日。斎場通路の壁は、写真家である前夫によって思い出のスナップで埋め尽くされた。
 その中に遠い昔の義父と私と娘の写真があった。高校生のように幼い私の横で、若々しい義父が両腕でしっかりと赤ん坊の娘を抱いている。
 それは離婚したのち、3人で多摩川に散歩に行った時のものだった。義父の大きな背中に母子家庭の心細さは消え、すっかり安心して川辺を歩いた日々が、浮かんでは消えた。
 「おーい君、悪いけど嫁と孫との写真を撮ってよ」
 いつもの調子で通りすがりの学生を呼び止め、カメラのシャッターを押させた義父。
 「じいちゃんは、この子が結婚する時まで長生きする。けいちゃん、しっかり育ててよ」
 夕陽に照らされ、長い影が3つ、すすきのように揺れていた。
 最後にして最高の置きみやげ。たくさんの思い出に、
 「お義父さんありがとう」
と手を合わせた。

エッセイイメージ
夜半、ヨークシャーで撮ったカードタルトの写真を見ると、
無性に甘いものが食べたくなります。



連載エッセイ「大丈夫!」と言ってくれ 


嵐のあとの……   井形慶子と僕らのNOW AND THEN
文=熊谷祥延、野村光、手塚真由美

フォトエッセイ始まる

 今、同時進行で5つ以上の執筆を抱えている井形編集長。来る6月初旬、「宝島社」から発売予定の待望のフォトエッセイ、『イギリス式 節約お片づけ(仮)』がその中の一つだ。実はこのエッセイ、2004年に同社から発売した『井形慶子のイギリス式 暮らしの知恵』の第2弾企画なのである。そして私は、その立ち上げから編集長の元で影武者として手伝いをしている。
 全128ページからなる内容はというと、今詳しく話すことはできないが、これだけは言える。とにかく内容が濃く、見応え十分。というのも、このフォトエッセイは、今まで編集長が10年以上かけてイギリス取材してきたもの+昨年末取材した撮りおろしを凝縮させたものなのだ。それを「チープシック」という一つのキーワードに基づいてコンテンツ分けをしていく。

「あの家の丸いケーキどこ?」「ユニクロのチュールの古着屋のアップは?!」
 と悲鳴にも似た叫び声が聞こえてくる。その度にビクッとなる私。他の人には何のことか分かるまい。そうやって数百枚にも及ぶ写真を引っ張り出す……正直、彼女の言う事は、気の遠くなるような記憶力を要する。
 しかしこの時間は、今、本誌の編集をやっている私にとって非常に大切な時だ。普段から一緒に仕事をすることがあっても、編集長の本作りに一から関わったことなど今までなかった。20年以上編集経験ある、その道のプロの仕事を、目の当たりにできる。こんな機会はなかなか巡ってこない。同僚には悪いが「もう一歩先に行かせてもらう」、そんな思いだ。
 その彼女の仕事ぶりを見ているとへぇーと思う。社長・作家としてさまざまな仕事を抱え多忙を極める中、2日間で全ページの大まかな内容を決め、写真を選別してしまうのだ。この雑誌の特集を組むときに同じ作業をしている私は、たかだか十数ページにも関わらず2日も費やしてしまう。帰宅すれば日付が変わっている毎日を送っている。圧倒的に仕事のスピードが違うのだ。その差は一体なんなのだろう? そればかり考えている。

 アナログ派の彼女はインターネットなど使わず、今、手元にある素材に鋭く眼光を見開き、的確に選別していく。その作業には、まったく無駄を感じさせない。僕らはというと、あーだこーだ言いながらパソコンの前に張り付き、インターネットという無限の情報の中から素材を探そうとし、時間を無駄に浪費している。そこ一つとってもかなりスピードが違ってくる。こうして一緒に仕事をしていると、自分たちがいかに無駄な作業をしているかが少しずつだが見えてくる。本当に良い経験だ。

 今年は『ミスター・パートナー』にとっても、自分にとっても勝負の年だと思っている。廃刊に追い込まれる雑誌が相次ぎ、その中で生き残っていくためには、更なるリアリティーが必要不可欠なのだ。このフォトエッセイが完成したときに、自分がどれだけ彼女からそのノウハウを吸収できるかが鍵だろう。
 どんなに眠くてもへこたれず、前を向いてガンバルぞ。生まれてくる子どものためにも……。

(くまがい・よしのぶ)

古書との出会い

 彼女の携帯電話が鳴ったのは、フランス人作家、マルク・レヴィ氏の取材へ向かうタクシーの中でのことだった。取材の打ち合わせをしている最中だったので、多少焦りながら応答した彼女だったが、30秒ほど話をしていると、にわかに声が高まる。何事だろうと思って様子をうかがうと、電話を切り彼女が言うのである。
「サンマーク出版さんから、イギリスの本の翻訳依頼がきたのよ!」
 これまで多くのイギリスのエッセイや恋愛小説などを執筆した彼女だが、翻訳の仕事は初めてらしい。仕事の幅を広げるチャンスでもあり、また知られざる英国文化の橋渡し役になれるとなって、タクシー内はこの話でもちきり……とならぬよう、取材の打ち合わせに切り替えるべく苦労したのを、今でも覚えている。

「イギリス人の知恵に学ぶ 妻がしてはいけない180のこと」「イギリス人の知恵に学ぶ 夫がしてはいけない181のこと」の2冊の出版は、そんな寸劇のうちに、ほぼ決定した。「約束のない日曜日」の執筆などのスケジュールにぶつかることもあって、出版社の配慮の元に監訳という形をとった本書。
 しかし、この仕事は最初から意外な苦労を強いられた。これほどまでに愛された(はずの)本書だが、著者のブランチ・エバットは、まったくの無名作家だったのである。イギリス国内の資料もなく、復刻された2冊の本以外に、何の解説書もなければレビューもない。まさに手探りの仕事となった。バイオグラフィーのない作家の本が、現代の出版業界で初登場となるのは、まったくの異例だ。さらに仕事を難しくさせたのは、いうまでもなく、初版と現代との時代差である。
 読者の方には、一世紀前の英語を読むのは大変と思われる方も多いかもしれないが、イギリスの本は(文学でなければ)1900年以降に出版されたモノは、非常に読みやすい。当時の風潮のせいか、文体は非常にシンプルで分かりやすく、冗長な理論付けがされていない。しかも、英語のスペリングも統一されている(古い本では、"connection"が"connexion"と表記されるなどの例がある)。本書自体も非常に単純明快な構成だったので、翻訳は難しくはないと思われた。
 しかし、そのシンプルさが仇となった。

 当時の中流家庭では、夫が働きに出て、家ではメイドを雇い、それを妻が管理するという結婚生活が主流だったが、これをふまえながら、いかにシンプルに「してはいけないこと」を訳すかがポイントとなった。できるだけ説明を省き、明快でユーモラスな響きを活かすかを、彼女は一番に苦悩していた。
 そんな中、急ピッチで作業が進み、サンマーク出版編集部の橋口さんから、表紙の見本も届いた。可愛らしく古典的な装丁で完成した本書。早く書店で見たいと井形共々、楽しみにしている今日この頃だ。

(のむら・ひかる)

「約束のない日曜日」の想い出

「こんな風な感じに書きたいんだよね」
 そう言って見せられたのが、オードゥーの古い小説"Marie-claire"だった。井形曰く、孤児として育った女性の哀しくも、美しい物語らしい。調べてみて分かったことは、本書は1910年にパリで出版されフェミナ賞を受賞。それまでは無名だったパリの貧しい裁縫師オードゥーは一気に脚光を浴びた。現在は絶版になっているそうで、黄土色に変色し、所々シミがついた、よれよれの薄っぺらな本にたくさんの罫線やチップや折り目をつけ、大事そうにそれを使用していた。この小説に漂う、哀しくも清潔な透明感が、今回井形が本を執筆するにあたり、目指したかったポイントらしい。

 ちなみに執筆中、この本と一緒に常に井形の机に積まれていた本はイギリスの詩人ワーズワースの詩集、そしてなぜか可愛い小鳥ちゃんが主人公の小説、私も大好きな一冊だが、それが「約束のない日曜日」にどう参考になったかは謎である。
 普段は、イギリス関連のエッセイを書くことが多いが、そんな合間に依頼があった、私小説ともいえる哀しい愛の物語、書くのがとても楽しみだと言っていた。
 彼女は執筆中、ずっと同じ曲をエンドレスで聴く。ちなみに「約束のない日曜日」の執筆曲は、映画「嵐が丘」のサウンドトラックだった。
 そして、今回の執筆に当たり、いつもと違うことが一つだけあった。それは、彼女がとても「女性的」だったという事だ。服装にしろ、話し方にしろ一時的ではあったけれど、「おしとやか」だった。普段マニッシュなパンツスーツが多い彼女は、一時的に可愛らしい服装が多くなった。あまり社員を怒鳴り散らすこともなかった。本人ははたして、そんな自分の変化に気づいていたのだろうか?

 さて、好調に執筆が進んだ「約束のない日曜日」は、約1ヶ月ほどでスピーディーに完成。
 読んでみての正直な感想は、ストーリー全体に漂う、静かで、物哀しくて、清潔な、季節でいうと「秋」のような一定のトーンが心地いいなー、と思った。まさに井形の目指した"Marie-claire"の世界観を体得したのではないだろうか。
「約束のない日曜日」では、最後、銚子が舞台となり登場するが、もちろん、彼女は編集部員ら数人に便乗し銚子取材を決行した。
 当初、編集部は漁業の取材のため銚子に向かっていたので、井形とは行きも帰りも別々だったし、井形が何の取材に来たかも知らされていなかったが、皆で銚子の民宿に一泊した。そこは、「外川」という場所で、民宿から港まで歩いて5分だった。
 空気は生暖かく、潮の香りに満ちていた。銚子の最も端っこであるこの場所は、冬でも暖かいそう。

 そんな地で、井形は普段より口数が少なく、風景を眺めなにかを頭で練っている様子。
「おもしろい事考えてるんだ。でもまだ秘密」
 そう言っていたあの日から、約5ヶ月。そんな取材の日々が凝縮され、一冊の本になり完成した。

(てづか・まゆみ)

エッセイイメージ
ミサワホーム季刊誌の取材を自宅で受ける模様。
皆でモニター画面をチェック。便利になりました。(井形)




連載エッセイ「大丈夫!」と言ってくれ 


きさらぎ日記―やるって言いましたよね

2月某日

 世知辛い世の中になった。挨拶の枕詞は、「景気悪いですわ」「さっぱりですな」など浮かぬ言葉が必ずくっつく。時候の挨拶そっちのけ、みんなが不景気風にあおられている。
 財布の紐は硬く、ATMや銀行の窓口周辺には、「振り込め詐欺にご用心」という警告が以前よりも増えたようだ。こんなご時勢だからこそ、何食わぬ顔をして一般市民を貶めようとする輩が横行するのかもしれない。
 先だっても携帯電話に見知らぬ会社からメールが入ってきた。「○×会社お客様窓口センター」とあり、「機種変更に伴う手数料不足分のお知らせ」「2万円請求します」とある。
 もともと、私はあまりメールをしないので、送信もせず何度も読み返し、これは詐欺だと警察にすぐ届け出た。それにしてもうっかりしていると、間違えて支払いそうな内容である。
 この手の振り込め詐欺はマスコミ業界をも直撃している。真面目に書籍や雑誌を発行している編集者らが集まると、いかがわしい連中に潰されないためには、どうすべきかが話題にのぼる。

2月某日

 わが編集部でもこんなことがあった。
 ある日、広告主の一人から涙ながらに電話があった。頼んでもいない広告原稿を版下ができたから確認してくれと、見ず知らずの新聞社がFAXで送ってきたという。
 典型的高齢者の一人暮らしであるその方は、地方の町で自分の特技であるべっ甲細工をこつこつ作り、それを息子さんがネット販売していた。還暦過ぎても俳句をたしなみ、自治会の長も務める地域で、ご意見番的おじいちゃまの平穏な日常を揺るがす電話はその後も続く。
「頼んだ覚えはないよ。何かの間違いでしょ」そう言っても、相手は「1ヶ月前にやるって言いましたよね、もう忘れたんですか」と、引き下がらない。あげく、うちがこれを作るのにどんなに手間取ったかと、1時間以上も罵詈雑言を浴びせられたという。
 最後には、べらんめぇ口調の責任者と名乗る男が、どうするつもりですかと、電話を切らず粘ったという。
 面倒くさくなったおじいちゃまは、言われるまま数万円の掲載料を支払うと、承認したそうだ。会社名と電話番号が四角い枠の中に適当にレイアウトされたその広告は、どこのものともつかぬ業界新聞に掲載されるという。
 ところが、話はこれで終わらず、次の日も、またその次の日も「掲載するって言いましたよね」と、複数の新聞社から電話がかかってくる。相談を受けた編集部の担当者は、集団サギの疑いありと、警視庁の指導通り、地元の警察署に行ってもらった。
「私が依頼したという証拠を書面でFAXしてください」
 気が動転していたのかも知れないが、くだんのおじいちゃまが、そう返せば相手はひるんだに違いない。
 もし、あらぬ言いがかりをつけられたら、書面を見せてもらうのが一番だ。
 サイン、契約書は欧米並みに必要な時代となったのだから。

2月某日

 それにしても、悪質な振り込め詐欺がメディア業界にまで入り込んでくると、本当にいい話とインチキ話の境が無くなって、誰も彼もが疑心暗鬼になってくるのではないかと、腹立たしくなってくる。
 こういうことで、真面目にやっている商売が邪魔されたのではたまらない。広告費削減の折り、皆が新しい取引を不安がり、日本経済がますますジリ貧になるのではと、懸念するのは私だけだろうか。
 お尻に火が着き、にっちもさっちもいかなくなると、人は善悪の見境を無くし、人の利益を自分のものにすべく、その手口も巧妙になる。どうせ最後は踏み倒し、夜逃げすればいいという、やぶれかぶれの根こそぎ根性。このような被害に遭わないために、心にスキを作らない緊張感を持ち続けていたいものだ。
 また、複数の目がこの手の犯罪を防止する。私に送られてきた不審なメールは、警察も含め、3人の人に転送し「詐欺か否か」を確かめた。その後、警視庁が振り込めメールで荒稼ぎしていた若者を摘発し、後日逮捕されたようだ。
 MPでは万全を期して、この手の犯罪にひっかからないようにしてきた。読者の皆様、クライアントの方々、少しでも不審な連絡や請求があれば、いつでもMPの担当者までご一報下さい。

2月某日

 3月に出版される2冊(厳密には3冊)の本の校正&打ち合わせに追われつつ、現代ボロ家再生プロジェクトも佳境に入ってきた(これについては、また、少し先にお伝えします)
 いずれも私にとっては大切な仕事なので、寝ても覚めても気が抜けない。まず、ベストセラーとなった『あなたが私を好きだった頃』(ポプラ社)の続編、『約束のない日曜日』が同社から3月に発売される。話は、別れてしまったかつての恋人との間に大きな変化が訪れたところから始まる。雑木林に囲まれた屋敷の離れに暮らす「私」の前に、不可思議な家主、そして年下の青年が現れ、恋は意外な展開を見せる――。
 校正をしながら、涙がこぼれた私。ヒカルなど編集部員らは遠巻きに気色悪がっていたもよう。考えてみると、独り机に向かって泣きながら赤ペンを走らせるとは、ムリヤリ居残りを食らった小学生のようだ。
 でもそれほどの情感が、読み手を飲み込んでしまう作品です。乞うご期待下さい。
 また、『イギリス人の知恵に学ぶ 夫がしてはいけない181のこと』『イギリス人の知恵に学ぶ  妻がしてはいけない180のこと』という、英国で100年間読み継がれてきた名作の翻訳書も発売に。版元、サンマーク出版の橋口さんに原書を手渡された瞬間、半貴石付きいぶし銀アンティークの指輪のような可愛らしさに圧倒された私。エドワード朝の隠れた名作を監訳しつつ、その世界観にハマってしまった。
 大流行の兆し、インフルエンザだけは感染しないよう、万全を尽くして、春が来るまで何とか乗り切らねばと思っている。

バースデイパーティ
MP編集部に来られた歌手、岩崎宏美さんと、互いのスタ誕予選秘話を話す。。




連載エッセイ「大丈夫!」と言ってくれ 


Winter Diary――忙月日記

十二月某日

 12月に入ってSONYを始め、名だたる企業のリストラが加速している。その大半が派遣社員で、生活のメドも立たぬ失業者が日本中に溢れるのは必至だ。
 不況に漂う亡霊与党。こういう政治家を選んだ私たちにも責任はあるが、雇用対策の遅れを自腹を切ってくい止めるくらいの責任を取って欲しい。
 官僚も含め、政府の要人は体たらくを詫び、自らの給料をカットして仕事や住まいを失った人々に倦怠削除金を返すべき。ホテルのバーにゴルフ三昧。テレビや新聞を見るたび、唖然とする。
 今回の不況は直下型。政府を批判して手をこまねいていては、間に合わない。
 何かしなければと考えあぐね、そうだ、路頭に迷う人々を支援しよう! と決めた。
 MPのホームページや誌面でもお伝えした、創刊20周年キャンペーンクライマックスで、3冊買ったら1冊お好きな本・雑誌をプレゼントするという――Buy 3 Get 1 Freeの売り上げ金半分と、社内チャリティーでスタッフからお金をかき集めた。
 これらの支援金を袋に入れて熊デスク、ヒカル、手塚さんの3人に、ホームレスと呼ばれる人たちに、細々と炊き出しを続ける日本キリスト教団 山谷伝道所に届けに行ってもらう。
 冬の冷雨が降りしきる中、3人がたどり着いた伝道所は、6畳一間。炊き出しに使う大鍋や米や食品、古着の入った段ボールが詰まれた部屋は、座卓を入れたら、足の踏み場もないほど狭かったとか。毎週300人の人々に配給食を作る小さな台所は、アパート並み。
 驚いたのは、3人を暖かく迎え入れた小さなおばあちゃんが牧師さんで、なぜ、うちのようなところに寄付しようと思ったのかと、若い彼らに問うたという。
 3人の代表、熊デスクが、編集長が山谷に何度も足を運んだこと、クリスチャンで、この伝道所の支援活動を前から知っていたことなどを語ると、滝栄子さんというその牧師は、「きっと、編集長さんは、若いあなた方に山谷を見せたかったんですよ」と、言われたそう。
 10円まんじゅうを2つずつ小さな小鉢に入れてお茶と一緒に出され、「いつもお祈りしていただくんですよ」と、3人の訪問に感謝の祈りをされたとか。滝牧師は、私にも短い手紙を書いてくださった。
 緊張しながら10円まんじゅうを食べる3人に、気付かなくてごめんなさいと、タオルを3本しぼって、おしぼりまで出してくれる心遣い。
 年の頃70代のおばあちゃんが、こういう暖かさで路頭に迷う人々を受け入れているのだと、簡易宿泊街などをまわった3人は、すっかり感銘を受けて帰ってきた。
 すごい人たちなんですよと興奮する彼らは、「営業しろよ。お前ら、契約書ファイルしたのか!」と、締め切りに殺気立つ猛獣使いの上司にも、写真を見て下さいとせがんだそうだ。
 鬼のような上司の後ろで3人は、善いことをしたと、山谷の余韻に満たされている。
 編集部では、12月より、菓子やカップ麺を毎日社内販売し、コンビニやスーパーに落ちるおやつ代までかき集め、支援金に充てた。
 クリスマスを前にして、来年、日の当たらない滝牧師らのような人々の働きを支えるには、何ができるのか、真剣に考えている。

滝牧師と我が編集部員
「皆さん、ありがとう」と感激される滝栄子牧師を囲む3人。

伝導所キッチン
このキッチンで15人のボランティアと共に作られる食事が山谷の人々を支える。
日本キリスト教団 山谷伝道所 山谷伝導所

十二月某日

 月刊雑誌には、約半月のタイムラグがある。いつも一番新しい出来事を書こうと、ギリギリまで入稿を待つが、今回は、日々5時間の睡眠時間を確保するのがやっとという年の瀬だった。
 来年春先まで、書き下ろしも含めると進行中の本が6冊あり、その一つがさきほど終わった。2005年ポプラ社から出た『あなたがわたしを好きだった頃』の続き。最愛の恋人と別れた女性は、どんなふうに葛藤をくぐり抜け、2度目の恋を受け入れるのかというテーマの体験的恋愛エッセイだ。
『あなたが〜』は恋に破れた、またはつらい恋愛のさ中にある女性に広く読まれて、15万部のベストセラーになった。4月発刊の文庫では、人気漫画家の槇村さとるさんが解説を快諾して下さった。
 そんな思い出深い前作を受けた今度の作品は「トラウマ」「年下」「30代」「妹の結婚」「再会」というキーワードが、まるで夜に降る雪のように、ヒラヒラと闇を舞い落ちる。
 調子よく書いていると、人の気配。ふと後ろを見ると、ヒカルが立っている。私たちより早く、明日、日本を発ちイギリスへ向かうのだ。黒いコートを来て、気を付けてイギリスにいらして下さいと、挨拶する。
「ヒースローでの待ち合わせは、えっと、BMI(ブリティッシュ・ミッドランド航空)の出発ラウンジでいいわよね」
「心配されなくても、必ず待ってますので」
 いつもながら、プチジェントルマンの彼の、現地取材スケジュールも確認できぬまま送り出すことに。
 猛獣使いの上司に餞別をもらい、三人組の一人がいなくなる。

年末の編集部
編集部の片隅にある私の仕事場からは、冬枯れの公園が見えます。

十二月某日

 しんみりと原稿を書いていると、ヒッヒッヒッとがやってきた。ちょっと来て下さいと、彼が手招きする倉庫の奥にあるスタジオには、きれいなバースデーケーキが。
 今日は私の誕生日だった。早いものだ1年は……と、流しのギター弾きさながらのTらに誕生日を祝ってもらった。
 猛獣使いの上司が保護者のような顔で、日本に残された熊デスクと手塚さんを従え、この思いつきを褒め讃える。私の汚い書き文字をパソコンで入力し、きれいな原稿にしてくれるノザワ君も、30名の喧噪の現場から、こっそり呼び出す。
 10分間の誕生会。明日はロンドン。この原稿が出る頃には、新しい年が始まっている。
 皆様の上にも明るい希望の光が降り注ぐ一年でありますように。

バースデイパーティ
食事もおにぎりで済ます毎日に、うれしいイチゴのバースデーケーキ。




連載エッセイ「大丈夫!」と言ってくれ 


師走日記

11月某日

 フランスきってのベストセラー作家 マルク・レヴィ氏をインタビュー。木枯らしが吹く曇り空の午後、担当のヒカルと日仏会館に出向く。道中、ン万円もする広角レンズを買ったと自慢する彼は、これから会う人物が世界中で1600万部もの売上を記録するフランスのミリオンセラー作家だいうことが頭から抜け落ちている様子。
 日仏会館の美しい枯れ葉色の中庭で『永遠の7日間』(PHP研究所)について尋ねた。(この模様は1月10日号をご覧下さい)

マルク・レヴィ氏と

 「フォトセッション」と、私達の写真を狂ったようにヒカルが撮っている中、朝6時から17時間、一日中執筆するという驚異の集中力はどこからくるかを尋ねる。それは、たとえば部屋に漂う香りか音楽かと問う私に「音楽だよ」と、物語の世界に入っていくことが大切だとおっしゃった。
 それって、メディテーションのようなものですねと、私が言うと、そうそう、とにかくそれを楽しむことだと、偉大な作家のアドバイスに、改めて書き手がどれだけ作品世界に乗り移れるかの大切さを知る。
 レヴィ氏の本はフランスで売れに売れている。ただし、英国ではティーンエイジャーのラブストーリーを彷彿とさせるという評もあり。天使と悪魔が人間世界で恋に落ちるという設定はいいが、カタカナ名がたくさん出てくると頭がこんがらがる。
 考えてみると、恋の全てを説明しようとする女性作家は、恋人達を文章で映像化しようとするが、男性作家は男と女に何が起きているのかを書こうとする。たとえば、『マイフェアレディ』も作者は男性だし、『眺めのいい部屋』『モーリス』『インドへの道』を書いたE・M・フォスターも男性だ。
 そういう意味で、一番恋愛をバランスよく描けるのはゲイだと英国人の編集者が言っていた。
 もう一つ、ソフィー・マルソーは大好きな女優だが、彼女が主演するフランス映画は抽象的で、ただ、彼女の美しさや仕草に見とれて終わってしまうことが多い。フランス人は曖昧模糊とした、どこかアーティスティックな感覚を好むのだろう。
 レヴィ氏はパリよりロンドンがはるかに好きだとおっしゃった。行きつけのおいしいレストランを教えてもらい、私の本も丁寧に見てくださった。ダイエット甘味料を持ち歩き、座ろうとした椅子の落ち葉もはらってくださった。執筆を楽しむレヴィ氏は、素敵な紳士だった。
 帰りしな、寒い中に一時間近く庭に座っていた私をヒカルが気遣う。きれいな英語を話す20代の彼は、英国仕込みの『ハンサムボーイ』だと思う。
 私はヒカルの後を歩きながら、書くことが楽しい時と楽しくない時があると考えていた。楽しい時は文が飛び跳ねるし、無理矢理書くと文に命が無くなって平らになてしまう。レヴィ氏のように書くことが楽しいと、いつも心から思えるようでいたい。

11月某日

 最近、20代の頃行ったロンドンをやたらに思い返している。サッチャー政権が誕生したばかりのイギリスは、今とは全く違うある種の暗さと貧しさが入り交じって、ケン・ローチの映画そのもの。移民と白人イギリス人のバランスがとれていた。EUに加盟する前のイギリスは大英帝国の名残もあって、ジェントルマンの価値観も健在だった。
 ロンドンでインド人や中東の人々と接しても、皆が古き良き時代のイギリスの習慣に敬意を払い、彼らのマナーにそれはよくあらわれていた。ドアを開け、次の人を待つ。道に迷えば目的地まで同行してくれる、など。今はヨークシャーあたりの北部の小さな村にもアラブ、中国、東欧の人たちが暮らし、彼らの生活習慣をそのまま持ち込み自国と同様に振る舞っていることに違和感を覚える。
 そんなことを来日した英国人と話した。彼も80年代のロンドンが懐かしいらしく、「あの頃は月曜から土曜まで一生懸命働いて、日曜日は家族のためのものという区分けもあった」と言った。
 雑貨店とパブしか開いてない日曜日のロンドンは、パーキングメーターも動いていないため、市内のどこに車を止めてもよかった。
 ポートベロロードのマーケットも屋台の大半では、一般人が家からアンティークや中古品を持ち寄って、言い値で売っていた。

マーケット

 ビクトリア朝の大きな家に住む高齢者達は、捨てられないと広い屋根裏部屋に物をストックする。老人亡き後は、それを家族が引っ張り出してマーケットで売るから、とても価値あるものがポケットの小銭で買えた。
 私の友人はブライトンのマーケットで中国製の立派なついたてを「この古美術品をいくらで買いたいか」と売り主に聞かれ、600ポンド(約9万6千円)が限界と言い値で購入したとか。ロンドンに持ち帰った後、知り合いの弁護士に見せると、すぐに保険をかけろと忠告されたという。変だなと思い、その道の専門家に鑑定を依頼したところ、ついたては6千ポンド(約96万円)の価値がある逸品と分かった。十分の一の値段で骨董品が買えるなど、今ではあり得ないことだと、友人は言った。
 あの頃、クリスマス前にマーケットをのぞくと、少しのお金でボーイフレンドに贈る紋章入りの指輪も買えた。貧しく閑散としていたロンドンで、夢のような出来事をたくさん経験した。
 そんなことを話し出すと、日本人、イギリス人問わず目の色が変わり、饒舌になる。この感覚は昭和を思う気持ちと少し違う。昭和には悲しみと後悔が張り付いている。労働組合が社会を牛耳っていたあの頃のロンドンには、貧しい中にユーモアとノスタルジアが詰まっていた。
 「出来るならあの頃のイギリスに戻って欲しい」という人が40代以上にとても多い。消えていったものは経済発展では補えない。いや、お金がないから根付く生活習慣や文化もある。ハイドパークの散策、お宝の詰まったマーケット、炒めたオニオンとハンバーグの匂い。それをひどく幸せに感じる心。
 ショッピングがエンタテインメントでなかった暗い日曜日は、今よりはるかに面白かった。

11月某日

筑紫哲也さん 筑紫哲也さんの追悼番組を見た後、毎日筑紫さんについて考えている。73歳でガンに倒れることは珍しいことではないのに、彼の死に強いショックを受ける人々の多さに驚いたのは私だけではないはずだ。
 「筑紫さんがさっき亡くなりました!」編集部の若い女性が私の部屋に飛び込んできた。彼女も取り立てて筑紫さんに関心があったわけではないのに、うろたえている。
 まだ自分にはやるべきことがある。最後まで伝えるべき事をきちんと後世に残していこうという信念を貫いた強さは、放映された闘病中のVTRや日記によって多くの人をとらえたはずだ。
 大きな事件が起きるたび、『ニュース23』筑紫さんがどんなふうに報じるのか、氏の考えを聞きたいとテレビのスイッチをつけた。いつもいつも筑紫さんのコメントを軸にするのは、私だけかと思っていた。何とも浅はかなことだ。氏が亡くなった後、あの人もこの人も同じようなことを言い、涙を流す。筑紫さんがこれほど惜しまれていることがご本人に伝わらないのが悔しい。
 過去をきちんと見つめ、少数派になることを恐れず、危ない行進を続けるこの国に本気で待ったをかけられる人は、いよいよ少なくなってきた。
 とても取り残された気がする。先細りになる政治やジャーナリズムや景気が、いつか細い糸となって切れてしまうのではないかと感じている。自分に今できることが何なのか、姜尚中氏は「僕らがきちんと見張っていなければ。そういう意味で僕らの出番なんですよ」と、おっしゃった。
 力を出し惜しみしてはいけない。学問やジャーナリズムに関わる人だけではなく、誰もが本気で力を出し切って、自分の人生を生きなければいけない。それでやっとバランスが取れるか否かの時代なのだから。