(左)難波の宮跡
(右)大坂城
(右)大坂城
里程元標跡(高麗橋)
江戸時代、京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道程の起点は、高麗橋の東詰にあった。1876年(明治9年)明治政府は高麗橋東詰に里程元標を置き、西日本の道路の距離計算の起点とした。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。
江戸時代、京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道程の起点は、高麗橋の東詰にあった。1876年(明治9年)明治政府は高麗橋東詰に里程元標を置き、西日本の道路の距離計算の起点とした。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。
株式会社 GNR 代表取締役
千田明氏
学業修了後、NTTグループをはじめとする電気通信事業者の工事を請け負う大手企業の一角を占めていた「株式会社東電通(とうでんつう)」に入社。NTT関連アクセス部門で通信工事の施工管理に従事。東営業所所長、EGW工事部長、取締役などの役職を歴任。相前後して「東電通」は同業大手と合併し「株式会社ミライト」になる。退職後、複数の電気工事会社から請われて2011年5月に電気工事業、電気通信工事業を業務とする『株式会社GNR』を設立し、代表取締役に就任。NTTやNEXCO(西日本高速道路)、それらの関連会社などから受注した電気通信や電気設備の工事をグループ会社に振り分け、時にプロジェクトチームを結成して相乗効果を生み出し、事業を牽引。
千田明氏
学業修了後、NTTグループをはじめとする電気通信事業者の工事を請け負う大手企業の一角を占めていた「株式会社東電通(とうでんつう)」に入社。NTT関連アクセス部門で通信工事の施工管理に従事。東営業所所長、EGW工事部長、取締役などの役職を歴任。相前後して「東電通」は同業大手と合併し「株式会社ミライト」になる。退職後、複数の電気工事会社から請われて2011年5月に電気工事業、電気通信工事業を業務とする『株式会社GNR』を設立し、代表取締役に就任。NTTやNEXCO(西日本高速道路)、それらの関連会社などから受注した電気通信や電気設備の工事をグループ会社に振り分け、時にプロジェクトチームを結成して相乗効果を生み出し、事業を牽引。
東海道五十七次の歴史を辿る旅
電気通信工事のプロの飽くなき探求心
電気通信工事のプロの飽くなき探求心
電気通信設備工事業大手「ミライト」を退職後、50社を超える関連会社を束ね受注業務を調整し遂行する『株式会社GNR』を設立した代表の千田明氏は、歴史に強い関心を持ち、エンジニアらしい探究心で名所旧跡を訪ねては造詣を深めてきた。中でも大阪市中央区北浜の「ミライト」社の支店近くに、東海道五十七次の起点とされる高麗橋があったことから、東海道五十七次に興味を持った。東海道五十七次というのは、江戸時代西国の大名は京都を通過することを禁止されていたため、大阪・京橋から守口、枚方、 淀、伏見の宿場を経由して大津に抜けていたことに由来する。街道沿いの由緒ある寺社仏閣、歴史に刻まれた名所や事象、伝統的な年中行事について調べ、見聞きしたことを写真とともに留めた記録は緻密で知識の深さを示す。
千田氏は、京橋から旅を始めるにあたり、まず大阪のシンボル・大阪城について言及している。
「そもそも大坂※の始まりは、1496年、浄土真宗本願寺派中興の祖といわれる蓮如が、今の大阪城の場所に開いた石山御堂の門前町だと言われています。一度炎上しましたが、門徒が他宗・領主との争いに明け暮れていたためお城のような区割りに再建され、1532年石山本願寺となりました。強大な勢力を誇りましたが、1580年織田信長に攻められ炎上。その後1585年豊臣秀吉が築城した大坂城は、徳川家康により大阪夏の陣で炎上しました。さらに明治維新には、長州軍による砲火(幕府軍の放火によるとも言われる)により炎上。計4回も消失しているが、戦前の1931年(昭和6年)市民の寄付により、現在のコンクリート製の大阪城が完成、大阪大空襲でも残りました。現在の大阪城公園は軍需工場であったため、徹底して爆撃に会い、1955年(昭和30年)を過ぎた頃も鉄骨むき出しの廃屋であったと記憶しています。しかし、そこで働いていた技術者が大阪の中小企業の礎となり、協力すれば人工衛星も作れる集団となりましたが、如何せん現在の景気の動向では苦しい状況と思われます。
現在の大阪城は大阪市民でも豊臣秀吉が築いたと思っている人が多いですが、徳川家光の時代に10年の歳月を費やして完成したもので、財力を減らすために西国大名が総動員されました。城は豊臣時代の城の上に築かれたもので、近年の発掘調査で豊臣時代の石垣と秀頼公と思われる頭部が発見されました(京都の清凉寺に埋葬されています)。秀吉時代の外堀は、東は猫間川(現在のJR西日本大阪環状線)、西は東横堀・西横堀(現在の阪神高速大阪環状線)、南は空堀(現在の空堀商店街、大阪冬の陣の講和後、急いで埋め立てたため段差が現在も残っている)と広大な掘割でしたが、徳川家康の策略により滅びました。
また、大阪城の南には日本書紀にも記載のある、大化改新後に孝徳天皇が遷都した前期難波宮である難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)と、聖武天皇が難波復興のため作られた後期難波宮(後に桓武天皇の時、長岡京に資材を移転)の遺跡が史跡公園として整備されています。1868年4月、大久保利通は人心一新のため大阪遷都の建白書を出します。実績を作るため、天皇が大阪に行幸されている間に、東京が徳川家崩壊後の不安な状況だということで中止になりました。なにか橋下市長が大阪都と頑張っておられましたが、なにか歴史は繰り返されるのでしょうか。もっと大阪を紹介したいのですが、旅を進めることにしましょう。これから紹介する守口・寝屋川方面は、昔はレンコン畑が点在し、大阪城付近から南へ続く上町台地以外は海でした。氷河期には陸地であったので、マンモスの化石が出土するような土地柄ですが、温暖期に入り海面が上昇して海となり、その後、淀川・大和川等の河川の堆積土で平野となった湿地帯です。そのため、仁徳天皇の時代から治水との戦いであり、洪水被害をなくすため、江戸時代は大和川(大阪城の北東付近で淀川と合流)を住之江方面より大阪湾に、明治時代には新淀川をユニバーサルシティ北側方面に流路を変えたので、今のところ大阪は洪水から守られているのです」
千田氏は時間を作っては、大阪市内を見て回る。いにしえの歴史を辿り、写真に納め、仔細に記録していく。千田氏の飽くなき探求心を満たす旅はまだ始まったばかりだ。
※「大坂」「大阪」と表示したが、明治時代までは「大坂」の表示だった。「坂」は土に返る、武士が反乱するとの理由から、また大阪が栄える様にと、盛んになる意味がある「⻖」が使用されるようになった。
千田氏は、京橋から旅を始めるにあたり、まず大阪のシンボル・大阪城について言及している。
「そもそも大坂※の始まりは、1496年、浄土真宗本願寺派中興の祖といわれる蓮如が、今の大阪城の場所に開いた石山御堂の門前町だと言われています。一度炎上しましたが、門徒が他宗・領主との争いに明け暮れていたためお城のような区割りに再建され、1532年石山本願寺となりました。強大な勢力を誇りましたが、1580年織田信長に攻められ炎上。その後1585年豊臣秀吉が築城した大坂城は、徳川家康により大阪夏の陣で炎上しました。さらに明治維新には、長州軍による砲火(幕府軍の放火によるとも言われる)により炎上。計4回も消失しているが、戦前の1931年(昭和6年)市民の寄付により、現在のコンクリート製の大阪城が完成、大阪大空襲でも残りました。現在の大阪城公園は軍需工場であったため、徹底して爆撃に会い、1955年(昭和30年)を過ぎた頃も鉄骨むき出しの廃屋であったと記憶しています。しかし、そこで働いていた技術者が大阪の中小企業の礎となり、協力すれば人工衛星も作れる集団となりましたが、如何せん現在の景気の動向では苦しい状況と思われます。
現在の大阪城は大阪市民でも豊臣秀吉が築いたと思っている人が多いですが、徳川家光の時代に10年の歳月を費やして完成したもので、財力を減らすために西国大名が総動員されました。城は豊臣時代の城の上に築かれたもので、近年の発掘調査で豊臣時代の石垣と秀頼公と思われる頭部が発見されました(京都の清凉寺に埋葬されています)。秀吉時代の外堀は、東は猫間川(現在のJR西日本大阪環状線)、西は東横堀・西横堀(現在の阪神高速大阪環状線)、南は空堀(現在の空堀商店街、大阪冬の陣の講和後、急いで埋め立てたため段差が現在も残っている)と広大な掘割でしたが、徳川家康の策略により滅びました。
また、大阪城の南には日本書紀にも記載のある、大化改新後に孝徳天皇が遷都した前期難波宮である難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)と、聖武天皇が難波復興のため作られた後期難波宮(後に桓武天皇の時、長岡京に資材を移転)の遺跡が史跡公園として整備されています。1868年4月、大久保利通は人心一新のため大阪遷都の建白書を出します。実績を作るため、天皇が大阪に行幸されている間に、東京が徳川家崩壊後の不安な状況だということで中止になりました。なにか橋下市長が大阪都と頑張っておられましたが、なにか歴史は繰り返されるのでしょうか。もっと大阪を紹介したいのですが、旅を進めることにしましょう。これから紹介する守口・寝屋川方面は、昔はレンコン畑が点在し、大阪城付近から南へ続く上町台地以外は海でした。氷河期には陸地であったので、マンモスの化石が出土するような土地柄ですが、温暖期に入り海面が上昇して海となり、その後、淀川・大和川等の河川の堆積土で平野となった湿地帯です。そのため、仁徳天皇の時代から治水との戦いであり、洪水被害をなくすため、江戸時代は大和川(大阪城の北東付近で淀川と合流)を住之江方面より大阪湾に、明治時代には新淀川をユニバーサルシティ北側方面に流路を変えたので、今のところ大阪は洪水から守られているのです」
千田氏は時間を作っては、大阪市内を見て回る。いにしえの歴史を辿り、写真に納め、仔細に記録していく。千田氏の飽くなき探求心を満たす旅はまだ始まったばかりだ。
※「大坂」「大阪」と表示したが、明治時代までは「大坂」の表示だった。「坂」は土に返る、武士が反乱するとの理由から、また大阪が栄える様にと、盛んになる意味がある「⻖」が使用されるようになった。
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