深井総研 株式会社
代表取締役 深井利春氏
1947年長野県生まれ。レストラン、ホテルを経営、南国果物ババコウの栽培に成功後、千曲川に流れる洗剤の泡に心痛し、1986年すべての事業を止め研究に没頭する。1995年「創生水」を発表。2007年『深井環境総合研究所株式会社』設立。2011年東京福祉大学・大学院特任教授就任。
代表取締役 深井利春氏
1947年長野県生まれ。レストラン、ホテルを経営、南国果物ババコウの栽培に成功後、千曲川に流れる洗剤の泡に心痛し、1986年すべての事業を止め研究に没頭する。1995年「創生水」を発表。2007年『深井環境総合研究所株式会社』設立。2011年東京福祉大学・大学院特任教授就任。
水と油を混ぜて燃やす
環境・エネルギー事情を改善する水
環境・エネルギー事情を改善する水
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
二、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
三、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
四、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
五、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり、雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失わざるは水なり
これは豊臣秀吉の天下取りを支え、秀吉や徳川家康から厚い信頼を得ていた軍師・黒田官兵衛の名言。水の循環を人の一生に置きかえ、生き方を説いたものだ。
これをはじめ古今東西を通じて〝水〟にまつわる格言・名言は数知れない。〝水〟が私たちの身近にあり、人間ばかりでなく地球上の生きとし生けるものが、生きていくために必要不可欠なものであることの証しであろう。
また私たちの日々の生活を支える様々な生産活動を支えているのも〝水〟である。しかし、それを口実に大気を汚し、水を汚しているのも私たち人間である。日本には昔から「この話は水に流そう」という表現があるが、現実では水に流したものは、巡りめぐって私たちに還ってくるのである。
環境の真の救世主
洗剤を使わなくても油汚れが落ちる。シャンプーなし、リンスなしでも髪を傷めず、自然のままの美しく強い髪になる。洗剤や柔軟剤を使わなくても、衣類はフワフワになる。そんな環境を汚さない理想の〝水〟があることをご存じだろうか。長野県上田市の『創生ワールド』が開発した「創生水」だ。水の分子(H2O)は、1個の酸素原子「O」と2個の水素原子「H」からできており、ぶどうの房のように連なっている。「創生水」は、この分子集団(クラスター)が通常の水道水やミネラルウォーターに比べて小さく、通常の水分子が通ることのできない細胞や脂肪の間を通り抜けることができる。さらに「創生水」の生成過程で発生するヒドロキシルイオン(H3O2ー)には界面活性効果があり、洗剤を使わなくても汚れを溶かすことができる。そのため生活排水で川や海を汚染することもない。
誕生のきっかけ
まさしく夢のような「創生水」はどのようにして生まれたのか。代表の深井利春さんにお話を伺った。「今でも子ども頃、父から言われたことを忘れたことはありません。当時家畜商を営んでいた父は、ある日分解された自動車のキャブレターを前に『これを元に戻せ』と私に命じました。やり方が分からずに断ると父は『人間が作ったものを人間に直せないはずがない』と聞き入れてくれませんでした。泣きながら試行錯誤を重ね、三昼夜をかけて組み立てました。その時『やってやれないことはない』ということを学びました。また、一緒に川へ出かけた時にはこう言われました。『自然と人間は一体だ。川を汚せば人間の血液が汚れ、必ず人間は病気になる。だから川を汚してはいけない』と。その意味が分かったのは父の死後でした」。深井さんは、高校卒業後、一時東京や千葉で働いた後、実家へ戻り、千曲川や街を見下ろす見晴らしのよい土地に父親が建てた建物で高級ステーキレストランをオープンした。父親が亡くなったのはその翌年だった。深井さんは悲しみを乗り越えようとがむしゃらに働いた。その結果レストランは繁盛し、その余勢を駆りホテルをオープン。事業は成功を重ね、3年後にはホテルをもう一軒建てた。さらに事業拡大を図るため、南国のフルーツ「ババコウ」の栽培を始め、これもマスコミに取り上げられるほどの大成功を収める。「その時、栽培にホテルからの排水を利用することを思いつき、排水を引っ張ったのですが、洗剤の泡だらけで使えませんでした。胸騒ぎがしてホテルの下の千曲川を見ると、川に洗剤の泡が浮かんでいました。私は愕然とすると同時に、その時『川を汚してはいけない』という亡き父の言葉が蘇ってきたのです」
新たな出発〜創生水の開発
埋め立てられ、コンクリートで固められて、洗剤や工場排水が流れる千曲川。子どもの頃に遊び、育ててくれた千曲川の変わり果てた姿を目の当たりにし、さらに自分自身もそれに加担していたことに深井さんはしばらく自問自答を重ねる。そして自分の良心にしたがって生きることを決心する。その答えはすべての事業を清算し、洗剤をなくすための研究を始めることだった。8年の歳月をかけ、「洗剤を200倍に薄めても洗浄力の落ちないシャワーヘッド」を開発するが、当時アドバイスを受けていた大学教授から「洗剤はいくら薄めても毒は毒」との指摘を受け、販売を停止する。
そこで深井さんは洗剤と同等の洗浄力を持ち、口に入れても安全な水の開発を目指した。研究を進める中で、トルマリン(電気石)が、水のクラスターを小さくし、さらに界面活性効果があるヒドロキシルイオン(H3O2ー)を発生させることを知る。これにより洗剤を使わなくても汚れを落とすことができる「創生水」が誕生する。「創生水」は、まずイオン交換樹脂を使い、水道水に含まれるマグネシウム、カルシウムを吸着・除去し、硬水から軟水に変える。次に鮮度を上げる黒曜石で還元水を作る。さらに還元する時に発生する活性水素が水道水に含まれる塩素を不活性化し、トリハロメタンやダイオキシンの発生を抑制することができる。そしてトルマリン(電気石)を通すことで界面活性効果を併せ持つ「創生水」が生まれる。「創生水の生成器を取り付けると、蛇口から出る水がすべて創生水になります。食器洗いや洗濯はもちろん、お風呂でも水だけで身体や髪を洗うことができ、飲料水や料理にも、すべて創生水を使うことができます。洗剤や石けん、シャンプーが消えた家からの排水はきれいになり、きれいな水を川へ、地球にお返しできるのです」
水を燃やす〜新しいエネルギー源の誕生
さらに深井さんは「創生水」に含まれる水素に着目する。元素記号「1番」が示すように、宇宙で最初に生まれたとされる元素が水素だ。水素が集まって光となり、星を作り、そして生命が誕生する。その強大なエネルギーを生み出す水素、とりわけ「創生水」の生成過程で生まれる、単原子で存在する原子状態の水素「活性水素」に着目した。そして誕生したのが「創生フューエルウォーター(SFW)」だ。
「原子状水素は、分子状の水素ガスに比べ4倍近いカロリーを発生させる」。深井さんは、これを代替エネルギーとして使うことができれば、現在のエネルギー事情が大きく変わり、経済活動を損なうことなく環境問題を改善できると確信するに至る。そこで深井さんは、ディーゼルエンジンを使い、本来混ざることのない水と油を混ぜて燃やすという、まるで夢物語のような実験を開始した。これまで多くの研究者が、水中に「原子状水素」が存在することを確かめる実験を試みてきたが、測定方法が確立されていないため、データの信憑性に異議を唱える専門家も多かった。エンジンは、わずかな不純物が混じっただけで不完全燃焼を起こす。まして水が中に入れば壊れて止まってしまう。もしも水(SFW)と軽油を混ぜた燃料を使ってエンジンが止まらなければ、水が油と混ざり燃えたことになる。それが「原子状水素」が存在することの証明になるのだ。実験では、水素濃度の高い2種類の水素水を使った時には止まってしまったエンジンが、「SFW」を使うと止まることなく動き続け、さらに軽油だけの場合より長く動き続けたのだった。
また、油を燃やす際、約40%の燃料油は燃焼せずに排出されている。もし100%燃焼することができれば、より効率よく高いエネルギーを得られることになる。そのため、水の微粒子を爆発気化(ミクロ爆発)させることで油の粒子を細分化し、酸素との接触面積を増やすことで完全燃焼に導くエマルジョン燃料が古くから着目され、水と油を混ぜるための乳化剤が研究されてきた。そこには水と油は混ざらないという概念があったからである。
自然を学び、水の可能性を追求することから生まれた「創生水」は、エマルジョン燃料の乳化剤として使用されている化学物質(界面活性剤)に負けない界面活性力を持ち、しかも自然や環境を汚すことのない水なのだ。
さらに深井さんは、マレーシアで漁船を使った運用を第三者公開の下で始めた。航海は10日間におよび、昼夜を分かたず漁場を移動し、5時間毎に網を降ろして巻き上げる。燃料は「SFW」と軽油を混ぜたものだ。航行と網の上げ下ろしに必要な動力にこの混合燃料が使われた。結果は、エンジンは止まることなく滑らかに回り続け、軽油の消費を50%近く削減することができた。さらに国内外で船舶のディーゼルエンジンのほか、レシプロエンジンや、ロータリーエンジンを搭載した自動車など様々な実験を行い、いずれも成功を収めた。燃料の消費量も大幅に削減する結果となった。これら難易度の高いエンジンを使った数々の燃焼実験により、「SFW」が原子状水素を多量に含む活性水素水であることが証明され、新しいエネルギー源として未来を切り拓いたといえる。
父の教えと故郷への思い
生まれ育った千曲川の自然を守るため、ひいては現在のエネルギー事情、環境問題を改善することができる大きな可能性を秘めた「SFW」の開発と普及に全身全霊を捧げる深井さん。「水が変われば全て解決することができる」という強い確信を自らの行動で示してきた。その根底にあるのは、子どもの頃に聞かされた自然の循環を説いた父親の言葉なのである。
枯渇が問われる化石燃料ではなく、安全性・信頼性が問われる原子力でもない。身近な水が新たなエネルギー源として加わることで、CO2削減などの地球環境問題をはじめエネルギーが抱える様々な問題が改善されていく。水の持つ無限の可能性を秘めたエネルギー革命が起きようとしている。
(ライター/後藤宏幸)
二、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
三、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
四、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
五、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり、雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失わざるは水なり
これは豊臣秀吉の天下取りを支え、秀吉や徳川家康から厚い信頼を得ていた軍師・黒田官兵衛の名言。水の循環を人の一生に置きかえ、生き方を説いたものだ。
これをはじめ古今東西を通じて〝水〟にまつわる格言・名言は数知れない。〝水〟が私たちの身近にあり、人間ばかりでなく地球上の生きとし生けるものが、生きていくために必要不可欠なものであることの証しであろう。
また私たちの日々の生活を支える様々な生産活動を支えているのも〝水〟である。しかし、それを口実に大気を汚し、水を汚しているのも私たち人間である。日本には昔から「この話は水に流そう」という表現があるが、現実では水に流したものは、巡りめぐって私たちに還ってくるのである。
環境の真の救世主
洗剤を使わなくても油汚れが落ちる。シャンプーなし、リンスなしでも髪を傷めず、自然のままの美しく強い髪になる。洗剤や柔軟剤を使わなくても、衣類はフワフワになる。そんな環境を汚さない理想の〝水〟があることをご存じだろうか。長野県上田市の『創生ワールド』が開発した「創生水」だ。水の分子(H2O)は、1個の酸素原子「O」と2個の水素原子「H」からできており、ぶどうの房のように連なっている。「創生水」は、この分子集団(クラスター)が通常の水道水やミネラルウォーターに比べて小さく、通常の水分子が通ることのできない細胞や脂肪の間を通り抜けることができる。さらに「創生水」の生成過程で発生するヒドロキシルイオン(H3O2ー)には界面活性効果があり、洗剤を使わなくても汚れを溶かすことができる。そのため生活排水で川や海を汚染することもない。
誕生のきっかけ
まさしく夢のような「創生水」はどのようにして生まれたのか。代表の深井利春さんにお話を伺った。「今でも子ども頃、父から言われたことを忘れたことはありません。当時家畜商を営んでいた父は、ある日分解された自動車のキャブレターを前に『これを元に戻せ』と私に命じました。やり方が分からずに断ると父は『人間が作ったものを人間に直せないはずがない』と聞き入れてくれませんでした。泣きながら試行錯誤を重ね、三昼夜をかけて組み立てました。その時『やってやれないことはない』ということを学びました。また、一緒に川へ出かけた時にはこう言われました。『自然と人間は一体だ。川を汚せば人間の血液が汚れ、必ず人間は病気になる。だから川を汚してはいけない』と。その意味が分かったのは父の死後でした」。深井さんは、高校卒業後、一時東京や千葉で働いた後、実家へ戻り、千曲川や街を見下ろす見晴らしのよい土地に父親が建てた建物で高級ステーキレストランをオープンした。父親が亡くなったのはその翌年だった。深井さんは悲しみを乗り越えようとがむしゃらに働いた。その結果レストランは繁盛し、その余勢を駆りホテルをオープン。事業は成功を重ね、3年後にはホテルをもう一軒建てた。さらに事業拡大を図るため、南国のフルーツ「ババコウ」の栽培を始め、これもマスコミに取り上げられるほどの大成功を収める。「その時、栽培にホテルからの排水を利用することを思いつき、排水を引っ張ったのですが、洗剤の泡だらけで使えませんでした。胸騒ぎがしてホテルの下の千曲川を見ると、川に洗剤の泡が浮かんでいました。私は愕然とすると同時に、その時『川を汚してはいけない』という亡き父の言葉が蘇ってきたのです」
新たな出発〜創生水の開発
埋め立てられ、コンクリートで固められて、洗剤や工場排水が流れる千曲川。子どもの頃に遊び、育ててくれた千曲川の変わり果てた姿を目の当たりにし、さらに自分自身もそれに加担していたことに深井さんはしばらく自問自答を重ねる。そして自分の良心にしたがって生きることを決心する。その答えはすべての事業を清算し、洗剤をなくすための研究を始めることだった。8年の歳月をかけ、「洗剤を200倍に薄めても洗浄力の落ちないシャワーヘッド」を開発するが、当時アドバイスを受けていた大学教授から「洗剤はいくら薄めても毒は毒」との指摘を受け、販売を停止する。
そこで深井さんは洗剤と同等の洗浄力を持ち、口に入れても安全な水の開発を目指した。研究を進める中で、トルマリン(電気石)が、水のクラスターを小さくし、さらに界面活性効果があるヒドロキシルイオン(H3O2ー)を発生させることを知る。これにより洗剤を使わなくても汚れを落とすことができる「創生水」が誕生する。「創生水」は、まずイオン交換樹脂を使い、水道水に含まれるマグネシウム、カルシウムを吸着・除去し、硬水から軟水に変える。次に鮮度を上げる黒曜石で還元水を作る。さらに還元する時に発生する活性水素が水道水に含まれる塩素を不活性化し、トリハロメタンやダイオキシンの発生を抑制することができる。そしてトルマリン(電気石)を通すことで界面活性効果を併せ持つ「創生水」が生まれる。「創生水の生成器を取り付けると、蛇口から出る水がすべて創生水になります。食器洗いや洗濯はもちろん、お風呂でも水だけで身体や髪を洗うことができ、飲料水や料理にも、すべて創生水を使うことができます。洗剤や石けん、シャンプーが消えた家からの排水はきれいになり、きれいな水を川へ、地球にお返しできるのです」
水を燃やす〜新しいエネルギー源の誕生
さらに深井さんは「創生水」に含まれる水素に着目する。元素記号「1番」が示すように、宇宙で最初に生まれたとされる元素が水素だ。水素が集まって光となり、星を作り、そして生命が誕生する。その強大なエネルギーを生み出す水素、とりわけ「創生水」の生成過程で生まれる、単原子で存在する原子状態の水素「活性水素」に着目した。そして誕生したのが「創生フューエルウォーター(SFW)」だ。
「原子状水素は、分子状の水素ガスに比べ4倍近いカロリーを発生させる」。深井さんは、これを代替エネルギーとして使うことができれば、現在のエネルギー事情が大きく変わり、経済活動を損なうことなく環境問題を改善できると確信するに至る。そこで深井さんは、ディーゼルエンジンを使い、本来混ざることのない水と油を混ぜて燃やすという、まるで夢物語のような実験を開始した。これまで多くの研究者が、水中に「原子状水素」が存在することを確かめる実験を試みてきたが、測定方法が確立されていないため、データの信憑性に異議を唱える専門家も多かった。エンジンは、わずかな不純物が混じっただけで不完全燃焼を起こす。まして水が中に入れば壊れて止まってしまう。もしも水(SFW)と軽油を混ぜた燃料を使ってエンジンが止まらなければ、水が油と混ざり燃えたことになる。それが「原子状水素」が存在することの証明になるのだ。実験では、水素濃度の高い2種類の水素水を使った時には止まってしまったエンジンが、「SFW」を使うと止まることなく動き続け、さらに軽油だけの場合より長く動き続けたのだった。
また、油を燃やす際、約40%の燃料油は燃焼せずに排出されている。もし100%燃焼することができれば、より効率よく高いエネルギーを得られることになる。そのため、水の微粒子を爆発気化(ミクロ爆発)させることで油の粒子を細分化し、酸素との接触面積を増やすことで完全燃焼に導くエマルジョン燃料が古くから着目され、水と油を混ぜるための乳化剤が研究されてきた。そこには水と油は混ざらないという概念があったからである。
自然を学び、水の可能性を追求することから生まれた「創生水」は、エマルジョン燃料の乳化剤として使用されている化学物質(界面活性剤)に負けない界面活性力を持ち、しかも自然や環境を汚すことのない水なのだ。
さらに深井さんは、マレーシアで漁船を使った運用を第三者公開の下で始めた。航海は10日間におよび、昼夜を分かたず漁場を移動し、5時間毎に網を降ろして巻き上げる。燃料は「SFW」と軽油を混ぜたものだ。航行と網の上げ下ろしに必要な動力にこの混合燃料が使われた。結果は、エンジンは止まることなく滑らかに回り続け、軽油の消費を50%近く削減することができた。さらに国内外で船舶のディーゼルエンジンのほか、レシプロエンジンや、ロータリーエンジンを搭載した自動車など様々な実験を行い、いずれも成功を収めた。燃料の消費量も大幅に削減する結果となった。これら難易度の高いエンジンを使った数々の燃焼実験により、「SFW」が原子状水素を多量に含む活性水素水であることが証明され、新しいエネルギー源として未来を切り拓いたといえる。
父の教えと故郷への思い
生まれ育った千曲川の自然を守るため、ひいては現在のエネルギー事情、環境問題を改善することができる大きな可能性を秘めた「SFW」の開発と普及に全身全霊を捧げる深井さん。「水が変われば全て解決することができる」という強い確信を自らの行動で示してきた。その根底にあるのは、子どもの頃に聞かされた自然の循環を説いた父親の言葉なのである。
枯渇が問われる化石燃料ではなく、安全性・信頼性が問われる原子力でもない。身近な水が新たなエネルギー源として加わることで、CO2削減などの地球環境問題をはじめエネルギーが抱える様々な問題が改善されていく。水の持つ無限の可能性を秘めたエネルギー革命が起きようとしている。
(ライター/後藤宏幸)
深井総研 株式会社
TEL:0268-27-3750 FAX:0268-27-3740 Eメール:service@fukaisouken.jp
ホームページ http://www.fukaisouken.jp/
創生ワールド 株式会社
TEL:0268-25-9422 FAX:0268-25-9425
ホームページ http://www.soseiworld.co.jp/
株式会社 ダク・エンタープライズ
代表取締役 阿部龍治氏
神奈川県横須賀市出身。神奈川大学工学部電気工学科在学中、米国に私費留学。大学院工学研究科卒業後、日本IBM入社。1994年、父親が1969年に創業した『ダク・エンタープライズ』、1987年設立の『首都圏ビルマネジメント』に取締役として入社。2009年、代表取締役に就任。
代表取締役 阿部龍治氏
神奈川県横須賀市出身。神奈川大学工学部電気工学科在学中、米国に私費留学。大学院工学研究科卒業後、日本IBM入社。1994年、父親が1969年に創業した『ダク・エンタープライズ』、1987年設立の『首都圏ビルマネジメント』に取締役として入社。2009年、代表取締役に就任。
不動産事業でインバウンド戦略
外国人向け仲介管理事業を展開
外国人向け仲介管理事業を展開
訪日外国人を意味するインバウンドをターゲットにしたマーケティング、インバウンド戦略で経済の活性化を図る動きが活発だ。が、その実態は誘致合戦に集中し、欧米のような定着を促進する取り組みは今一つ。国の成長戦略でも外国人が起業しやすい環境の整備を掲げているものの、総合的にサポートする体制の本格的な整備はこれからだ。インバウンドをめぐるこうした状況に風穴を開ける事業が登場した。『ダク・エンタープライズ』がこの春立ち上げた「グローバル・ビジネス・サポート」。経営者や投資家を対象に国内の事業用不動産の売買、賃貸を仲介し、管理もサポートする事業を外国人にも広げて展開するプロジェクト。社長の阿部龍治さんが培ったノウハウと幅広い人脈を生かしたインバウンド戦略の新たなビジネスモデルだ。
「日本に進出して不動産を購入する欧米や中国、台湾、シンガポールなどの海外の企業が増えていますが、外国人ビジネスマンが日本で事業を展開するうえで、拠点となる好立地のビルやオフィスを確保することは極めて重要な要件です。当社はビジネス環境に優れた新橋エリアにビルを持つオーナー様の約7割から直接仲介の依頼を請けていて、そのネットワークを生かすことができます。特に拠点探しで苦労している海外の中小企業をサポートしていきたいと思っています」
同社は3月に「グローバル・ビジネス・サポート事業部」を立ち上げ、活動に着手したが、同社の強みは、阿部さんが社長を兼務する不動産管理会社『首都圏ビルマネジメント』との連携だ。
「『首都圏ビルマネジメント』は、60棟超の不動産を管理していて、清掃会社や警備会社の手配、原状回復工事から設備の更新工事、修繕工事まで対応可能な体制ができています。『ダク・エンタープライズ』の仲介業務との連携によってワンストップで不動産サービスを提供できるので、日本の不動産事情に不慣れな外国人の負担軽減にもつながり、その点でもお客様のメリットが多いと判断して頂けると思っています」
また、外国人が日本の不動産を購入する場合に必要な外為法による財務省への報告、契約手続き、不動産取得税や登録免許税などの税金、納税管理人の設定、火災や地震の保険、宣誓供述書などの公証書類など面倒で複雑な制度や手続きについても、交流のある法律や税理、保険の専門家の協力を得てアドバイスし、サポートする。
インバウンド戦略の成否を左右する事業のアピール方法にも、システムエンジニアであった社長の情報技術、人脈が生きる。
「Webサイトで事業の詳細を紹介し、広く海外に発信するほか、外国人の雇用や外国企業との連携を考えている日本の企業向けにニュースレターを発行します。世界最大級の異業種交流組織BNI(Business Network International)の東銀座Rainbowチャプターに参加しているのですが、そこで築いた幅広い分野の人脈、さらに協力関係にある英会話コーチの人脈などを生かして、不動産を必要としている外国人を把握し、アピールしていく計画です」
阿部さんは、日本の中小企業の振興にも強い関心を持ち、「グローバル・ビジネス・サポート事業部」では、中小企業の知名度を上げるブランディングや市場を開拓するマーケッティングのサポート事業も展開する。ここでもWebサイトを活用するほか、ビジネスパートナーとの共同作業で、コミュニティFMなどローカルラジオやテレビに経営者を出演させたり、その様子をスタジオで収録したVTRをWeb上や経営セミナーの会場で流したりするサービスをリーズナブルな価格で提供し、ブランドの浸透、市場開拓に生かしてもらう計画だ。
『ダク・エンタープライズ』は、1969年に阿部さんの父親が創業、「中小ビルの需要は永遠に不滅」との信念を貫き成長してきた。阿部さんは、神奈川大学大学院を卒業後、日本IBMに就職、システムエンジニアとして培った経験を役立てたいと父親の会社に役員として入社、2009年に経営を引き継いだ。その中で得た知見を集め、2009年12月に出版した著書「自社ビル取得&運用マニュアル」は、ビルのオーナーやテナント、自社ビル取得を目指す経営者や投資家の間で広く読まれ、バイブル的な存在になっている。
2013年12月に共著出版した「家族で話すHAPPY相続」は、相続税増税により不安に思う一般の方にもわかりやすいと好評。2015年7月に、女性の自立をテーマに阿部さんが共著プロデュースした「凛女のススメ〜きらめく未来は私がつくる〜」は、丸善丸の内本店のノンフィクションランキングで1位を獲得後、4週間連続でトップテン入りをした。
「東京オリンピックの開催を控え、日本の注目度が上がり、訪日外国人の増加、日本社会の国際化の進展が予測される中、不動産事業の重要性はますます大きくなって行くと考えています。時代が求めるニーズを見定め、一万名超の異業種ビジネスパートナーと一緒に、業界の枠を超えた違う次元の解決策をご提案します」
(ライター/斎藤紘)
「日本に進出して不動産を購入する欧米や中国、台湾、シンガポールなどの海外の企業が増えていますが、外国人ビジネスマンが日本で事業を展開するうえで、拠点となる好立地のビルやオフィスを確保することは極めて重要な要件です。当社はビジネス環境に優れた新橋エリアにビルを持つオーナー様の約7割から直接仲介の依頼を請けていて、そのネットワークを生かすことができます。特に拠点探しで苦労している海外の中小企業をサポートしていきたいと思っています」
同社は3月に「グローバル・ビジネス・サポート事業部」を立ち上げ、活動に着手したが、同社の強みは、阿部さんが社長を兼務する不動産管理会社『首都圏ビルマネジメント』との連携だ。
「『首都圏ビルマネジメント』は、60棟超の不動産を管理していて、清掃会社や警備会社の手配、原状回復工事から設備の更新工事、修繕工事まで対応可能な体制ができています。『ダク・エンタープライズ』の仲介業務との連携によってワンストップで不動産サービスを提供できるので、日本の不動産事情に不慣れな外国人の負担軽減にもつながり、その点でもお客様のメリットが多いと判断して頂けると思っています」
また、外国人が日本の不動産を購入する場合に必要な外為法による財務省への報告、契約手続き、不動産取得税や登録免許税などの税金、納税管理人の設定、火災や地震の保険、宣誓供述書などの公証書類など面倒で複雑な制度や手続きについても、交流のある法律や税理、保険の専門家の協力を得てアドバイスし、サポートする。
インバウンド戦略の成否を左右する事業のアピール方法にも、システムエンジニアであった社長の情報技術、人脈が生きる。
「Webサイトで事業の詳細を紹介し、広く海外に発信するほか、外国人の雇用や外国企業との連携を考えている日本の企業向けにニュースレターを発行します。世界最大級の異業種交流組織BNI(Business Network International)の東銀座Rainbowチャプターに参加しているのですが、そこで築いた幅広い分野の人脈、さらに協力関係にある英会話コーチの人脈などを生かして、不動産を必要としている外国人を把握し、アピールしていく計画です」
阿部さんは、日本の中小企業の振興にも強い関心を持ち、「グローバル・ビジネス・サポート事業部」では、中小企業の知名度を上げるブランディングや市場を開拓するマーケッティングのサポート事業も展開する。ここでもWebサイトを活用するほか、ビジネスパートナーとの共同作業で、コミュニティFMなどローカルラジオやテレビに経営者を出演させたり、その様子をスタジオで収録したVTRをWeb上や経営セミナーの会場で流したりするサービスをリーズナブルな価格で提供し、ブランドの浸透、市場開拓に生かしてもらう計画だ。
『ダク・エンタープライズ』は、1969年に阿部さんの父親が創業、「中小ビルの需要は永遠に不滅」との信念を貫き成長してきた。阿部さんは、神奈川大学大学院を卒業後、日本IBMに就職、システムエンジニアとして培った経験を役立てたいと父親の会社に役員として入社、2009年に経営を引き継いだ。その中で得た知見を集め、2009年12月に出版した著書「自社ビル取得&運用マニュアル」は、ビルのオーナーやテナント、自社ビル取得を目指す経営者や投資家の間で広く読まれ、バイブル的な存在になっている。
2013年12月に共著出版した「家族で話すHAPPY相続」は、相続税増税により不安に思う一般の方にもわかりやすいと好評。2015年7月に、女性の自立をテーマに阿部さんが共著プロデュースした「凛女のススメ〜きらめく未来は私がつくる〜」は、丸善丸の内本店のノンフィクションランキングで1位を獲得後、4週間連続でトップテン入りをした。
「東京オリンピックの開催を控え、日本の注目度が上がり、訪日外国人の増加、日本社会の国際化の進展が予測される中、不動産事業の重要性はますます大きくなって行くと考えています。時代が求めるニーズを見定め、一万名超の異業種ビジネスパートナーと一緒に、業界の枠を超えた違う次元の解決策をご提案します」
(ライター/斎藤紘)
株式会社 ダク・エンタープライズ
TEL:03-3574-9651 FAX:03-3571-7587 Eメール:aberyuji@daku.co.jp
ホームページ http://www.daku.co.jp/
株式会社 首都圏ビルマネジメント
株式会社ジー・ディー・エス
代表取締役 谷野剛一氏
静岡県浜松市出身。青山学院大学経済学部経済学科卒業。愛知大学大学院経済学科研究科修了。ヤマハ発動機を経て父親が経営する谷野税務会計事務所勤務。1988年、有限会社データハウス21設立。翌年「宗家にんにくや」管理部門設置。中部印刷監査役を経て1999年、『ジー・ディー・エス』設立。
代表取締役 谷野剛一氏
静岡県浜松市出身。青山学院大学経済学部経済学科卒業。愛知大学大学院経済学科研究科修了。ヤマハ発動機を経て父親が経営する谷野税務会計事務所勤務。1988年、有限会社データハウス21設立。翌年「宗家にんにくや」管理部門設置。中部印刷監査役を経て1999年、『ジー・ディー・エス』設立。
農家との連携による新事業創出
半径5キロ内の野菜活用にカギ
半径5キロ内の野菜活用にカギ
浜名湖の東、畑や竹林が広がる静岡県浜松市西区大久保地区に2016年4月、新しい経営形態のレストランがオープンする。フランチャイズ方式で飲食事業を展開する「株式会社ジー・ディー・エス」と地元の農家、公職にある有力者などがNPO特定非営利法人を結成、農家から土地と空き家の倉庫を借り、レストランに改装、運営を「ジー・ディー・エス」に委託する方法だ。最大の特徴は、半径5キロ圏内の農家の畑で採れた野菜を提供すること。地域の力を結集して農業の6次産業化を推進する試みとして各方面の注目を集め、事業が成功すれば全国に広がる可能性を秘めた画期的な取り組みだ。
企画・立案したのは『ジー・ディー・エス』の社長谷野剛一さん。故郷、浜松を元気にしたいとフランチャイズ方式で大規模に飲食店を展開してきたが、農業の活性化に協力できないか考えた末、農家や地元選出の議員や自治会長に呼びかけ、2015年11月、NPO特定非営利法人「OHKUVO(おおくぼ)」を立ち上げ、代表理事に就いた。NPO法人の認証を受ける申請で、「地域の一次産業と心の豊かさを追求し多文化・多世代・多様性の交流と相互理解を推進することを理念とし、放棄地や未活用の施設を活用して、成長や気付きのきっかけになる交流の交差点として築く事業を実施し、不特定かつ多数のものの豊かさの増進に寄与すること」を目的に掲げた。この目的を実現する拠点がレストランだ。
NPO法人に参加した農家から使われていない約40アールの土地と約165㎡の空き家の倉庫を提供してもらい、倉庫をテラス付きのレストランに改装した。店名を「緑の谷のごちそうテラスCoCoChi」と名付け、開店に向けて準備を進めている。最大のセールスポイントとして計画しているのがサラダバー。半径5キロ圏内の畑で栽培された新鮮な野菜類を毎日届けてもらい、味わってもらう趣向だ。料理も野菜を生かしたメニューを用意する計画だ。
「浜松は野菜の種類の多さで国内屈指の産地。その強みを生かして農業を活性化させる方法を考えてきました。農業を農作物を作るだけの1次産業から食品加工や流通販売も手掛けて収益基盤を強化するいわゆる6次産業化の一形態として農家とタイアップして飲食業を展開する道を模索し、辿り着いたのがレストランです。農家から野菜を仕入れて料理を提供する従来の方法ではなく、農家の方たちに当事者意識を持っていただくことが重要と考え、農家の方たちも参加するNPO法人という形をとりました」
この方式による事業には多くの利点があると谷野さんは指摘する。
「運営は飲食店の経営実績がある当社が担うことで、地域の野菜づくりと当社の経営手法のコラボによる相乗効果が生まれます。農家の方は自分たちが作った野菜の価値を値段という形で確認できますし、美味しそうに食べている様子を見れば、生産意欲が湧いてくるでしょう。また搬入先がすぐそばなので、おばあちゃんが乳母車に野菜を積んで運んで来ることもできます。トラックで遠くに出荷するのに比べ、CO2の排ガスの削減にもなり、環境にやさしい事業ともいえます」
レストランは天井が5mと高く、開放感があり、大きなガラス窓から田園風景を見ながら食事ができる。敷地内ではニワトリを放し飼いにして、子どもたちに卵を拾ってもらい、卵がけご飯を味わってもらう食育ともいえるプランや梅林で梅の収穫を楽しんでもらうことも計画している。竹林は食後の散策に最適だ。約1500㎡の駐車場もある。開店に向け準備に余念のない谷野さんには、多くの人たちが笑顔で食事と農業体験、自然を楽しむ情景が目に浮かんでいる。
谷野さんは、「炭火焼肉酒家・牛角」「居酒家かまどか」「居酒家宴土間土間」「ビストロ呉服町Combine」「串焼き・釜飯 姫物語」「遠州や十兵衛」の6業態66店舗を展開するマルチフランチャイザー。これほどまでの展開を支えたのはリスク低下、高い成長性、収益性確保を可能にする独自のフランチャイズシステムだ。約1ヵ月間の店長向け集中研修や開店前のオペレーション研修による人財育成、開業後のスーパーバイザーによる店舗運営サポート、顧客満足度を数値で集計する仕組みや店舗運営の現状を把握し日次で管理・分析・改善ができるシステムの導入などで店作りから経営まで多角的にバックアップするシステム。その実績を背景に地域農業の活性化をテーマに新たに挑んだのが新事業。故郷を元気にする意欲と夢は膨らむ一方だ。
(ライター/斎藤紘)
企画・立案したのは『ジー・ディー・エス』の社長谷野剛一さん。故郷、浜松を元気にしたいとフランチャイズ方式で大規模に飲食店を展開してきたが、農業の活性化に協力できないか考えた末、農家や地元選出の議員や自治会長に呼びかけ、2015年11月、NPO特定非営利法人「OHKUVO(おおくぼ)」を立ち上げ、代表理事に就いた。NPO法人の認証を受ける申請で、「地域の一次産業と心の豊かさを追求し多文化・多世代・多様性の交流と相互理解を推進することを理念とし、放棄地や未活用の施設を活用して、成長や気付きのきっかけになる交流の交差点として築く事業を実施し、不特定かつ多数のものの豊かさの増進に寄与すること」を目的に掲げた。この目的を実現する拠点がレストランだ。
NPO法人に参加した農家から使われていない約40アールの土地と約165㎡の空き家の倉庫を提供してもらい、倉庫をテラス付きのレストランに改装した。店名を「緑の谷のごちそうテラスCoCoChi」と名付け、開店に向けて準備を進めている。最大のセールスポイントとして計画しているのがサラダバー。半径5キロ圏内の畑で栽培された新鮮な野菜類を毎日届けてもらい、味わってもらう趣向だ。料理も野菜を生かしたメニューを用意する計画だ。
「浜松は野菜の種類の多さで国内屈指の産地。その強みを生かして農業を活性化させる方法を考えてきました。農業を農作物を作るだけの1次産業から食品加工や流通販売も手掛けて収益基盤を強化するいわゆる6次産業化の一形態として農家とタイアップして飲食業を展開する道を模索し、辿り着いたのがレストランです。農家から野菜を仕入れて料理を提供する従来の方法ではなく、農家の方たちに当事者意識を持っていただくことが重要と考え、農家の方たちも参加するNPO法人という形をとりました」
この方式による事業には多くの利点があると谷野さんは指摘する。
「運営は飲食店の経営実績がある当社が担うことで、地域の野菜づくりと当社の経営手法のコラボによる相乗効果が生まれます。農家の方は自分たちが作った野菜の価値を値段という形で確認できますし、美味しそうに食べている様子を見れば、生産意欲が湧いてくるでしょう。また搬入先がすぐそばなので、おばあちゃんが乳母車に野菜を積んで運んで来ることもできます。トラックで遠くに出荷するのに比べ、CO2の排ガスの削減にもなり、環境にやさしい事業ともいえます」
レストランは天井が5mと高く、開放感があり、大きなガラス窓から田園風景を見ながら食事ができる。敷地内ではニワトリを放し飼いにして、子どもたちに卵を拾ってもらい、卵がけご飯を味わってもらう食育ともいえるプランや梅林で梅の収穫を楽しんでもらうことも計画している。竹林は食後の散策に最適だ。約1500㎡の駐車場もある。開店に向け準備に余念のない谷野さんには、多くの人たちが笑顔で食事と農業体験、自然を楽しむ情景が目に浮かんでいる。
谷野さんは、「炭火焼肉酒家・牛角」「居酒家かまどか」「居酒家宴土間土間」「ビストロ呉服町Combine」「串焼き・釜飯 姫物語」「遠州や十兵衛」の6業態66店舗を展開するマルチフランチャイザー。これほどまでの展開を支えたのはリスク低下、高い成長性、収益性確保を可能にする独自のフランチャイズシステムだ。約1ヵ月間の店長向け集中研修や開店前のオペレーション研修による人財育成、開業後のスーパーバイザーによる店舗運営サポート、顧客満足度を数値で集計する仕組みや店舗運営の現状を把握し日次で管理・分析・改善ができるシステムの導入などで店作りから経営まで多角的にバックアップするシステム。その実績を背景に地域農業の活性化をテーマに新たに挑んだのが新事業。故郷を元気にする意欲と夢は膨らむ一方だ。
(ライター/斎藤紘)
株式会社 ジー・ディー・エス
TEL:053-482-3768 FAX:053-482-3769 Eメール:home@gds.co.jp
ホームページ http://www.gds.co.jp/
稲葉設計 株式会社
代表取締役 稲葉均氏
横浜市出身。高校の機械科を卒業後、明治大学へ進学。機械と電気を学びながら仕事を始める。卒業後電験三種の国家試験に一度で合格。以来30年にわたり様々な設計・プログラムを手掛けている。2015年それまでの有限会社を『稲葉設計株式会社』に改組。
代表取締役 稲葉均氏
横浜市出身。高校の機械科を卒業後、明治大学へ進学。機械と電気を学びながら仕事を始める。卒業後電験三種の国家試験に一度で合格。以来30年にわたり様々な設計・プログラムを手掛けている。2015年それまでの有限会社を『稲葉設計株式会社』に改組。
機械・電気回路設計のスペシャリスト
「負けず嫌い」が世界を目指す
「負けず嫌い」が世界を目指す
電気設計・機械設計のスペシャリスト集団、神奈川県横浜市の『稲葉設計』。代表の稲葉均さんは、30年以上にわたり、数々の制御システムを設計してきた実績を持つ。例えば、空港などに設置された〝動く歩道”や、通販会社などの大型倉庫内で物品を自動で検索・収集・運搬するシステムなど自動化・省力化を推進するシステムの開発などを手掛けている。
同社の強みは、機械設計(ハード)と電気設計、プログラミング(ソフト)をワンストップで提供できること。それを成し遂げたのは、稲葉さんの「誰にも負けたくない」という負けず嫌いな生き方によるところが大きい。その波瀾万丈な人生を稲葉さんは語った。
喧嘩上等
「子どもの頃から負けず嫌いだった。小学校低学年は、ライバルと競って100点をとり、高学年ではいじめを受けて不登校に。中学では、入学式から先輩のリンチを受け、悔しくて泣いた。そこからは自分の力だけを信じて、復讐心に燃える外道の道へ。家を出されて独り暮らし。喧嘩上等。気付けば中二で裏番に。そして70人を率いる族の総長になっていた。
最初の恩師は当時の担任。決して不良扱いせず、毎日誰もいない教室で待っていた。ある日担任が言った。『人は裏切ること一瞬、人に信用してもらえることは大変だ。不良でも勉強ができれば後ろ指はさされない』。その言葉に一念発起。日々猛勉強。バイト、図書館、族の毎日。暇を見つけては教科書を暗記した。『次のテストで百点をとれ。できて普通、できなければカス』。担任の一言で火がついた。自分では100点満点が絶対条件。その甲斐あって見事満点。担任は『これで、高校に進学できるな』とつぶやいた。その後もバイト、図書館、族の毎日。県内の難関校に見事合格。当時の偏差値72。ここで第二の恩師が登場。高校の担任だ。『お前、まだヤンチャしてるのか?』『結果を出せ。卒業したければ卒業まで全ての試験に九十点以上とれ。それ以下なら退学。自分で決めろ』その言葉に即答した。『上等だ!』。その後はまたバイトと勉強の日々。3年後には無事に卒業。卒業式後に担任が言った。『おまえ根性あるな』と。いつしか『この世は結果がすべて、過程はいらない』ということを自覚する」。
電験三種
その後、稲葉さんは一浪し、独学で六大学の名門大学に合格。しかし「ここには学ぶものがない」と退学し、独りで会社、共栄電気を作る。アポなしで工場へ日参するが、誰にも見向きもされない。悔しさとはがゆさからがむしゃらに仕事をこなしていたある日のこと、そこにいた中年の男性に言われた。「おまえ電験三種ぐらい持ってるんだろう?」「電験三種って?」「おまえ、たいしたことないな」。この一言に啖呵を切っていた。「電験三種だか何だか知らないが、そんなもの一発で合格してやるよ」。調べてみると合格率は10%未満。馬鹿にした相手の顔を思い浮かべながら勉強した。結果は見事合格。届いた免許を持ち現場へ。「電験三種、これでいいか?」。有言実行を成し遂げた時だった。
ある決断
仕事が増え社員を増やした。「入社してよかった」と思ってもらえる環境を作り、人づてに人が集まった。会社が軌道に乗り10年が経った頃、重大な決断をする。「会社を譲り渡し、初心に戻る」。社員からも取引先からも、理解は得られなかった。それでも既に決めていた。「初心に戻り、また一から作る」と。その後2、3年会社に勤めるが、張り合いのない日々に嫌気がさしていたある日、小学校の恩師と再会。「人間は平等ではない」と言われ目が覚める。その言葉に背中を押され、翌日退職届を出す。そして新しい会社、信和電気を設立した。
苦悩の日々
前の取引先から何でも引き受け、徐々に信用を得る。信頼のおける社員が集まり始めた5年目のある冬の日のこと、突然の病魔に襲われる。思考能力が低下し、行動や言動もおかしくなった。社員一人ひとりに手紙を書き、会社をたたむ。社員から送別会に招かれ、思いも寄らない言葉をかけられた。「社長、短い間でしたがありがとうございました。社長と会えてよかったです』と社員全員が頭を下げた。「彼らを選んで間違いではなかった」。涙が止まらなかった。それからのことはあまり記憶にない。「死」を意識し、いつしか自殺の名所にいた。そこで第三の恩人である老人と出会う。「生」と「死」、そして「命」。「『生きる』ということは、人間の最大の試練である」ということを教わった。その言葉で目が覚めた。
稲葉、復活!
老人の言葉を噛みしめるうちに、心の中にともった小さな灯火が、次第に自信へと変わっていった。「まだ大丈夫だ」。身体の中から叫びが聞こえた。まずは病気に打ち克つこと。地獄のような苦しい治療に耐えた。そして復活した。「やれる!」。さらに上を目指すため稲葉設計株式会社を立ち上げた。「この時、決断のきっかけをもたらしてくれた女性がいる。いつも影で支えてくれるとても温かい存在。常に全身全霊でぶつかってくる。冷静な判断ができる。そして自分を奮い立たせてくれる。『均、均ならやれる!』と。それが、現在の妻であり、よき人生のパートナーである『あゆ子』だ」。
有言実行と感謝
稲葉設計を立ち上げた時、稲葉さんは目標を立てた。5年以内にアメリカに自社ビルを持つ。アメリカの最新技術を日本に取り入れ、日本の繊細な技術を世界に提供する。その第一人者になることである。
「『有言実行』。今も昔も、その気持ちに偽りはない。そして、この言葉は何も言わず、信じてついてきてくれた妻への感謝でもある。
今までの経験と実績を活かし、自分の可能性を信じて、アメリカで必ずで成功する。自分には誰にも負けない信念がある。世界の稲葉設計として、先頭を切って導くことが自分の使命であるからだ。
私の人生の分岐点には、必ずキーマンが現れた。今まで出会った人々を、私は決して裏切りることはできない。その出会いがなければ、今の自分はいないからである。
最後に『ありがとう』と心から言いたい」。
(ライター/後藤宏幸)
同社の強みは、機械設計(ハード)と電気設計、プログラミング(ソフト)をワンストップで提供できること。それを成し遂げたのは、稲葉さんの「誰にも負けたくない」という負けず嫌いな生き方によるところが大きい。その波瀾万丈な人生を稲葉さんは語った。
喧嘩上等
「子どもの頃から負けず嫌いだった。小学校低学年は、ライバルと競って100点をとり、高学年ではいじめを受けて不登校に。中学では、入学式から先輩のリンチを受け、悔しくて泣いた。そこからは自分の力だけを信じて、復讐心に燃える外道の道へ。家を出されて独り暮らし。喧嘩上等。気付けば中二で裏番に。そして70人を率いる族の総長になっていた。
最初の恩師は当時の担任。決して不良扱いせず、毎日誰もいない教室で待っていた。ある日担任が言った。『人は裏切ること一瞬、人に信用してもらえることは大変だ。不良でも勉強ができれば後ろ指はさされない』。その言葉に一念発起。日々猛勉強。バイト、図書館、族の毎日。暇を見つけては教科書を暗記した。『次のテストで百点をとれ。できて普通、できなければカス』。担任の一言で火がついた。自分では100点満点が絶対条件。その甲斐あって見事満点。担任は『これで、高校に進学できるな』とつぶやいた。その後もバイト、図書館、族の毎日。県内の難関校に見事合格。当時の偏差値72。ここで第二の恩師が登場。高校の担任だ。『お前、まだヤンチャしてるのか?』『結果を出せ。卒業したければ卒業まで全ての試験に九十点以上とれ。それ以下なら退学。自分で決めろ』その言葉に即答した。『上等だ!』。その後はまたバイトと勉強の日々。3年後には無事に卒業。卒業式後に担任が言った。『おまえ根性あるな』と。いつしか『この世は結果がすべて、過程はいらない』ということを自覚する」。
電験三種
その後、稲葉さんは一浪し、独学で六大学の名門大学に合格。しかし「ここには学ぶものがない」と退学し、独りで会社、共栄電気を作る。アポなしで工場へ日参するが、誰にも見向きもされない。悔しさとはがゆさからがむしゃらに仕事をこなしていたある日のこと、そこにいた中年の男性に言われた。「おまえ電験三種ぐらい持ってるんだろう?」「電験三種って?」「おまえ、たいしたことないな」。この一言に啖呵を切っていた。「電験三種だか何だか知らないが、そんなもの一発で合格してやるよ」。調べてみると合格率は10%未満。馬鹿にした相手の顔を思い浮かべながら勉強した。結果は見事合格。届いた免許を持ち現場へ。「電験三種、これでいいか?」。有言実行を成し遂げた時だった。
ある決断
仕事が増え社員を増やした。「入社してよかった」と思ってもらえる環境を作り、人づてに人が集まった。会社が軌道に乗り10年が経った頃、重大な決断をする。「会社を譲り渡し、初心に戻る」。社員からも取引先からも、理解は得られなかった。それでも既に決めていた。「初心に戻り、また一から作る」と。その後2、3年会社に勤めるが、張り合いのない日々に嫌気がさしていたある日、小学校の恩師と再会。「人間は平等ではない」と言われ目が覚める。その言葉に背中を押され、翌日退職届を出す。そして新しい会社、信和電気を設立した。
苦悩の日々
前の取引先から何でも引き受け、徐々に信用を得る。信頼のおける社員が集まり始めた5年目のある冬の日のこと、突然の病魔に襲われる。思考能力が低下し、行動や言動もおかしくなった。社員一人ひとりに手紙を書き、会社をたたむ。社員から送別会に招かれ、思いも寄らない言葉をかけられた。「社長、短い間でしたがありがとうございました。社長と会えてよかったです』と社員全員が頭を下げた。「彼らを選んで間違いではなかった」。涙が止まらなかった。それからのことはあまり記憶にない。「死」を意識し、いつしか自殺の名所にいた。そこで第三の恩人である老人と出会う。「生」と「死」、そして「命」。「『生きる』ということは、人間の最大の試練である」ということを教わった。その言葉で目が覚めた。
稲葉、復活!
老人の言葉を噛みしめるうちに、心の中にともった小さな灯火が、次第に自信へと変わっていった。「まだ大丈夫だ」。身体の中から叫びが聞こえた。まずは病気に打ち克つこと。地獄のような苦しい治療に耐えた。そして復活した。「やれる!」。さらに上を目指すため稲葉設計株式会社を立ち上げた。「この時、決断のきっかけをもたらしてくれた女性がいる。いつも影で支えてくれるとても温かい存在。常に全身全霊でぶつかってくる。冷静な判断ができる。そして自分を奮い立たせてくれる。『均、均ならやれる!』と。それが、現在の妻であり、よき人生のパートナーである『あゆ子』だ」。
有言実行と感謝
稲葉設計を立ち上げた時、稲葉さんは目標を立てた。5年以内にアメリカに自社ビルを持つ。アメリカの最新技術を日本に取り入れ、日本の繊細な技術を世界に提供する。その第一人者になることである。
「『有言実行』。今も昔も、その気持ちに偽りはない。そして、この言葉は何も言わず、信じてついてきてくれた妻への感謝でもある。
今までの経験と実績を活かし、自分の可能性を信じて、アメリカで必ずで成功する。自分には誰にも負けない信念がある。世界の稲葉設計として、先頭を切って導くことが自分の使命であるからだ。
私の人生の分岐点には、必ずキーマンが現れた。今まで出会った人々を、私は決して裏切りることはできない。その出会いがなければ、今の自分はいないからである。
最後に『ありがとう』と心から言いたい」。
(ライター/後藤宏幸)
稲葉設計 株式会社
TEL:045-873-1106 FAX:045-873-1106 Eメール:info@inabacorporation.com
株式会社明治機械製作所
代表取締役 廣田貢氏
1969年入社。本社製造部に5年勤務後、広島、名古屋、大阪で営業の第一線で活躍する。2010年6代目社長に就任。業績回復を託され、持ち前の気概と気骨で次々と改革を図り、V字回復を果たししつつある。
代表取締役 廣田貢氏
1969年入社。本社製造部に5年勤務後、広島、名古屋、大阪で営業の第一線で活躍する。2010年6代目社長に就任。業績回復を託され、持ち前の気概と気骨で次々と改革を図り、V字回復を果たししつつある。
維新の気骨と気概で、
常に革新を続ける老舗メーカー
常に革新を続ける老舗メーカー
2015年創業90周年を迎えた大阪市淀川区の『明治機械製作所』は、エアーコンプレッサーやスプレーガンなどの塗装機器や、塗装設備・システム機器の設計・製造・販売を、日本をはじめ、アメリカ、アジア、ヨーロッパで展開し、国内第2位のシェアを誇っている。社名の『明治機械製作所』は、1924年(大正13年)の創業時に、武士中心の社会から平等な民主精神へ大転換を遂げた「明治維新」の改革精神を持ち続けようと名付けられたものだ。現在、創業100周年を視野に入れ、「明治維新〜明日の環境のために〜」のスローガンを掲げ、新たな分野へ参入しようとしている。
和顔愛語(わげんあいご)
同社は今期33億円の売上げを見込んでいる。しかし過去には最高70億円を売り上げた時期があった。リーマンショックの傷がまだ癒えない2010年、かつてない2年連続の赤字を計上し、立て直しのために白羽の矢が立ったのが現在の6代目社長廣田貢さんだ。この時、年商は20億円まで落ち込んでいた。まず廣田さんが実行したのが社内の風通しを良くすること。社員全員が笑顔とあいさつを忘れず、コミュニケーションをとることで、明るく働きやすい職場環境を作ることだった。就任1年目に24億円、2年目には26億年を売り上げる。そして3年目に創業88周年を祝う内覧会を開催する。人でいえば”米寿”にあたるが、企業で祝うことはあまり聞かない。社内で企画を立て、社員の共同作業でやり遂げた。また、この年の売上げは25億円だったが、1台4500万円、全国に7台しかない複合5軸加工ができる機械を導入する。これは若手社員に、高性能・高機能の機械を見せ、そこから拡がる可能性を示す狙いがあった。さらに7500万円で三次元加工が可能な機械を導入する。三次元加工により、高額な金型を必要とせず、少数多品種の生産にも最適で、様々なオーダーに迅速に対応することができる。こうして4年目は29億円、5年目は30億円の売上げを計上した。
桃李成蹊(とうりせいけい)
廣田さんは、就任後毎年テーマとなる漢字を決めてきた。1年目は「叶」。夢ややりたいことを、口に出して言うことで気持ちが伝わる。2年目が「質」。自分の本質を知り、一歩前へ進むことを求めた。3年目は「配」。気を配る。物事を様々な角度から見ることで、回りに配慮する。4年目が「息」。自分の心。熱い物を冷ます時と、冷たい手を温める時では同じ「息」でも機能が異なる。様々な局面で、各自が心を使い一つになることを願った。そして5年目は「築」。売上げは29億円を目標にしていた。年度末まで10日を残し、あと1000万円で30億というところまで来ていた。会社一丸となり、結果30億2800万円を売り上げた。「マラソンも一度完走できると、次も完走できるようになります。同様に一度目標達成を経験できれば、次の準備や戦略を立てることができるようになります」という廣田さんの次の目標は、今期31億円、来期33億円、3年後に35億円を、そして遠からず50億円の売上げを達成することだ。
明治維新
この目標を達成するために必要なのが、新規分野への市場開拓と新製品・機器の投入で改革を推し進める文字通りの「明治維新」だ。背景には同社の主力分野の一つである自動車補修塗装分野で、自動ブレーキ装置の普及により修理件数が減少しているという事実がある。さらに従来の代理店・販売店への営業体制を、その先のエンドユーザーである企業へ向けていく。そのため、今まで未開拓だった3品業界(医薬品、食品、化粧品)と、形鋼(かたこう)や大型機械・建設機械などの工場塗装、塗装設備や塗装ラインなどの工業塗装への市場開拓と、塗着効率の良いフランス・サメス社の静電ハンドスプレーガンだ。サメス社の「ファイナーナノガンMV」は、人間工学に基づく設計と業界最軽量570gの重量で使いやすく、20%の塗着効率の向上と10%の塗料を削減することができる。
さらに海外事業についてもてこ入れを図っている。40年前から東南アジアへ進出しているが、現在注目しているのがフィリピンとミャンマーだ。安価なコピー商品が横行する両国から、現地販売代理店の人を岡山工場に招き、1ヵ月間研修を行う。そこで製品の高い品質と、その製品を生み出す日本の風土や習慣を理解して販売に活かしてもらい、現地に「明治ブランド」を浸透させる狙いがある。
業績のV字回復を果たすべく邁進する『明治機械製作所』。廣田さんの打ち出す「明治維新」のスローガンは、文字通り『明治』の気骨と気概を示すものとして会社全体に浸透し、着実に功を奏している。世界の高速道路の脇で"MEIJI AIR COMPRESSOR MFG. CO., LTD"の巨大なビルボードを目にする日も近い。
和顔愛語(わげんあいご)
同社は今期33億円の売上げを見込んでいる。しかし過去には最高70億円を売り上げた時期があった。リーマンショックの傷がまだ癒えない2010年、かつてない2年連続の赤字を計上し、立て直しのために白羽の矢が立ったのが現在の6代目社長廣田貢さんだ。この時、年商は20億円まで落ち込んでいた。まず廣田さんが実行したのが社内の風通しを良くすること。社員全員が笑顔とあいさつを忘れず、コミュニケーションをとることで、明るく働きやすい職場環境を作ることだった。就任1年目に24億円、2年目には26億年を売り上げる。そして3年目に創業88周年を祝う内覧会を開催する。人でいえば”米寿”にあたるが、企業で祝うことはあまり聞かない。社内で企画を立て、社員の共同作業でやり遂げた。また、この年の売上げは25億円だったが、1台4500万円、全国に7台しかない複合5軸加工ができる機械を導入する。これは若手社員に、高性能・高機能の機械を見せ、そこから拡がる可能性を示す狙いがあった。さらに7500万円で三次元加工が可能な機械を導入する。三次元加工により、高額な金型を必要とせず、少数多品種の生産にも最適で、様々なオーダーに迅速に対応することができる。こうして4年目は29億円、5年目は30億円の売上げを計上した。
桃李成蹊(とうりせいけい)
廣田さんは、就任後毎年テーマとなる漢字を決めてきた。1年目は「叶」。夢ややりたいことを、口に出して言うことで気持ちが伝わる。2年目が「質」。自分の本質を知り、一歩前へ進むことを求めた。3年目は「配」。気を配る。物事を様々な角度から見ることで、回りに配慮する。4年目が「息」。自分の心。熱い物を冷ます時と、冷たい手を温める時では同じ「息」でも機能が異なる。様々な局面で、各自が心を使い一つになることを願った。そして5年目は「築」。売上げは29億円を目標にしていた。年度末まで10日を残し、あと1000万円で30億というところまで来ていた。会社一丸となり、結果30億2800万円を売り上げた。「マラソンも一度完走できると、次も完走できるようになります。同様に一度目標達成を経験できれば、次の準備や戦略を立てることができるようになります」という廣田さんの次の目標は、今期31億円、来期33億円、3年後に35億円を、そして遠からず50億円の売上げを達成することだ。
明治維新
この目標を達成するために必要なのが、新規分野への市場開拓と新製品・機器の投入で改革を推し進める文字通りの「明治維新」だ。背景には同社の主力分野の一つである自動車補修塗装分野で、自動ブレーキ装置の普及により修理件数が減少しているという事実がある。さらに従来の代理店・販売店への営業体制を、その先のエンドユーザーである企業へ向けていく。そのため、今まで未開拓だった3品業界(医薬品、食品、化粧品)と、形鋼(かたこう)や大型機械・建設機械などの工場塗装、塗装設備や塗装ラインなどの工業塗装への市場開拓と、塗着効率の良いフランス・サメス社の静電ハンドスプレーガンだ。サメス社の「ファイナーナノガンMV」は、人間工学に基づく設計と業界最軽量570gの重量で使いやすく、20%の塗着効率の向上と10%の塗料を削減することができる。
さらに海外事業についてもてこ入れを図っている。40年前から東南アジアへ進出しているが、現在注目しているのがフィリピンとミャンマーだ。安価なコピー商品が横行する両国から、現地販売代理店の人を岡山工場に招き、1ヵ月間研修を行う。そこで製品の高い品質と、その製品を生み出す日本の風土や習慣を理解して販売に活かしてもらい、現地に「明治ブランド」を浸透させる狙いがある。
業績のV字回復を果たすべく邁進する『明治機械製作所』。廣田さんの打ち出す「明治維新」のスローガンは、文字通り『明治』の気骨と気概を示すものとして会社全体に浸透し、着実に功を奏している。世界の高速道路の脇で"MEIJI AIR COMPRESSOR MFG. CO., LTD"の巨大なビルボードを目にする日も近い。
株式会社 明治機械製作所
TEL:06-6309-1221 Eメール:infomeiji-m@meijiair.co.jp
ホームページ http://www.meijiair.co.jp/
宇仁繊維 株式会社
代表取締役 宇仁龍一氏
大手の織物会社の工場で機械を動かし、エンジニアとして44年間勤務。退職後、1999年に『宇仁繊維』を設立。社員全員が商品を企画して販売するのが経営コンセプトであり、自らも年間2億円を売る。自社の事業を商業ではなくあくまで工業と考え、次々と新しい手を打って成長を続けている。
代表取締役 宇仁龍一氏
大手の織物会社の工場で機械を動かし、エンジニアとして44年間勤務。退職後、1999年に『宇仁繊維』を設立。社員全員が商品を企画して販売するのが経営コンセプトであり、自らも年間2億円を売る。自社の事業を商業ではなくあくまで工業と考え、次々と新しい手を打って成長を続けている。
服飾業を支える日本の「ものづくり」
高品質な上にスピードを持って応じる
高品質な上にスピードを持って応じる
1999年の創業以来、ポリエステルや複合素材を中心とした薄地素材を生産・加工している『宇仁繊維』。今では年商60億円を超す企業へと順調に業績を伸ばしている。扱っているのは織り上げて染色しない生機(きばた)や染色用の生地「P下」(プリント下地)、無地の染め生地にプリントした生地、後加工を加えた生地など多岐に渡っている。が、同社は商社ではない。「機屋(はたや)」という「ものづくり」(工業)の会社である。「ファブリック(生地)ものは海外で生産される」という一般の常識を裏切って「国産のものづくり」にこだわってきた。
同社代表取締役宇仁龍一さんは「コストは中国産などに比べれば高くなります。しかし、お客様が求めるものを作っているのだから売れる。自社工場で作るので、国産品ではおそらく当社が一番安いはず」と語る。
同社から生地を買うのは薄物生地を使うブラウスなどの婦人服メーカーだけではない。フォーマルやメンズカジュアル、バッグ、靴、和風小物などの企画・製造・販売をする会社など、その数は約3000社にも及ぶ。近年では下着メーカーからの引き合いも増えているという。それだけの実績を果たせるようになったのには訳がある。基準の厳しい国際規格「エコテックス規格100」の認証を多くの品目で取得したことが業績アップを後押ししたからだ。繊維は肌に触れるもの。体に悪い材料や製法を採用しないで作らねばならない。
こうした製品の企画、デザイン、販売は社員達が自らこなしている。170名の社員は皆、服が好きで、アイデアをカタチにしたがっている社員ばかりというのも同社の強みだろう。開発した製品サンプルは数万種。だが、本当の強みは「機屋(はたや)」であるという事業の核をしっかり持っていることだろう。石川県にノンストップで生地を織り続ける工場を持ち、顧客からの注文にも即応可能だ。「100反、200反とまとまったロットでも3日で出荷できる。500反の実績もあります。もちろん1反からでも注文を承っています」
さらに、「プリントものならさらに3日、縫製に3日かかったとしても1週間で納入できます。これ以上時間がかかるようではお客様が待ってくれません」と語る宇仁さん。
海外生産に頼っていては、このスピードや小ロット・多品種注文に対抗するのは無理だろう。また、国産品に求められるのは、こうした対応の迅速さだけではない。世界に誇る「メイド・イン・ジャパン」ならではの品質やデザインもその一つだろう。昔ながらの、江戸小紋のような柄や和風テイストのものなど。そしてちりめんのような手触り感をうまく取り込んだオリジナルブランド「江戸小紋」シリーズが好評を得ている。その種類だけでも3万種を超え、大阪だけでなく東京や名古屋に設けたショールームや展示会で顧客に披露している。「見て『ハッ!』とし、着て心地良く、ワクワクする服地をより早くお客様に提供する」とは、宇仁社長が常々言っていることだ。
近年には海外進出も軌道に乗せた。中国の上海に「小紋貿易有限公司」、北京に「小紋工房貿易有限公司」の店を出し、展示会も開催するようになった。もちろん「小ロット・多品種・短納期」という要望に応える仕組みは国内の場合と同じ。さらに品質やデザインでも評価される日本ブランドのファブリックを、海外のテキスタイルメーカーやアパレルが買う時代の再来、といった状況もあり、「日本で売れるものなら、海外でも売れる」という宇仁社長の信念が実を結んだのだ。
一見、成熟しているように見える市場だが、実は常に新陳代謝を繰り返しており、量から質、質からセンスやブランド力で競争するステージに入っている。『宇仁繊維』と宇仁社長の終わらない挑戦。「ものづくりニッポン」の戦略は、こうした成熟市場への再挑戦にあるのではないかと思わせる。
(ライター/今井淳二 )
同社代表取締役宇仁龍一さんは「コストは中国産などに比べれば高くなります。しかし、お客様が求めるものを作っているのだから売れる。自社工場で作るので、国産品ではおそらく当社が一番安いはず」と語る。
同社から生地を買うのは薄物生地を使うブラウスなどの婦人服メーカーだけではない。フォーマルやメンズカジュアル、バッグ、靴、和風小物などの企画・製造・販売をする会社など、その数は約3000社にも及ぶ。近年では下着メーカーからの引き合いも増えているという。それだけの実績を果たせるようになったのには訳がある。基準の厳しい国際規格「エコテックス規格100」の認証を多くの品目で取得したことが業績アップを後押ししたからだ。繊維は肌に触れるもの。体に悪い材料や製法を採用しないで作らねばならない。
こうした製品の企画、デザイン、販売は社員達が自らこなしている。170名の社員は皆、服が好きで、アイデアをカタチにしたがっている社員ばかりというのも同社の強みだろう。開発した製品サンプルは数万種。だが、本当の強みは「機屋(はたや)」であるという事業の核をしっかり持っていることだろう。石川県にノンストップで生地を織り続ける工場を持ち、顧客からの注文にも即応可能だ。「100反、200反とまとまったロットでも3日で出荷できる。500反の実績もあります。もちろん1反からでも注文を承っています」
さらに、「プリントものならさらに3日、縫製に3日かかったとしても1週間で納入できます。これ以上時間がかかるようではお客様が待ってくれません」と語る宇仁さん。
海外生産に頼っていては、このスピードや小ロット・多品種注文に対抗するのは無理だろう。また、国産品に求められるのは、こうした対応の迅速さだけではない。世界に誇る「メイド・イン・ジャパン」ならではの品質やデザインもその一つだろう。昔ながらの、江戸小紋のような柄や和風テイストのものなど。そしてちりめんのような手触り感をうまく取り込んだオリジナルブランド「江戸小紋」シリーズが好評を得ている。その種類だけでも3万種を超え、大阪だけでなく東京や名古屋に設けたショールームや展示会で顧客に披露している。「見て『ハッ!』とし、着て心地良く、ワクワクする服地をより早くお客様に提供する」とは、宇仁社長が常々言っていることだ。
近年には海外進出も軌道に乗せた。中国の上海に「小紋貿易有限公司」、北京に「小紋工房貿易有限公司」の店を出し、展示会も開催するようになった。もちろん「小ロット・多品種・短納期」という要望に応える仕組みは国内の場合と同じ。さらに品質やデザインでも評価される日本ブランドのファブリックを、海外のテキスタイルメーカーやアパレルが買う時代の再来、といった状況もあり、「日本で売れるものなら、海外でも売れる」という宇仁社長の信念が実を結んだのだ。
一見、成熟しているように見える市場だが、実は常に新陳代謝を繰り返しており、量から質、質からセンスやブランド力で競争するステージに入っている。『宇仁繊維』と宇仁社長の終わらない挑戦。「ものづくりニッポン」の戦略は、こうした成熟市場への再挑戦にあるのではないかと思わせる。
(ライター/今井淳二 )
宇仁繊維 株式会社
TEL:06-6253-7311 FAX:06-6253-7312
宇仁繊維ファッション 株式会社
TEL:06-6253-7315
薬袋税理士事務所
所長 薬袋正司氏
1966年埼玉県生まれ。東京CPA会計学院卒業後、伊勢丹で経理業務全般を経験。税理士資格取得後、某外資系税理士事務所を経て、1997年に資産税に特化した税理士法人タクトコンサルティングに入社。10年間勤めた後、2007年に独立して現事務所を開業。宅地建物取引主任者の資格も持つ。
所長 薬袋正司氏
1966年埼玉県生まれ。東京CPA会計学院卒業後、伊勢丹で経理業務全般を経験。税理士資格取得後、某外資系税理士事務所を経て、1997年に資産税に特化した税理士法人タクトコンサルティングに入社。10年間勤めた後、2007年に独立して現事務所を開業。宅地建物取引主任者の資格も持つ。
エキスパートに聞く
相続・遺言問題の傾向と対策
相続・遺言問題の傾向と対策
東京・中央区京橋の『薬袋税理士事務所』は、相続や贈与、個人財産に関する税金対策のスペシャリストだ。所長の薬袋正司(みないしょうじ)さんは、豊富な経験と広い見識で、一件一件異なる相続や遺言についての相談に丁寧・的確に応える非常に信頼の厚い税理士だ。
今回は、相続対策でよくある疑問やトラブルについて伺った。
—親が遺言書を書きたがりません。またお金や土地がどのくらいあるのか聞くと、「早く死んで欲しいのか!?」と怒られます。どうしたらよいでしょうか。
「遺言や相続はナイーブな問題で、どうしても後手後手にまわりがちなのですが、最近はテレビや新聞にも度々取り上げられて、次第に認知されてきていると思います。話のアプローチとしては、いきなり相続の話をするのではなく、ご本人にとって身近なテーマ、今後の生活をどうしたいかということから始めるのがよいでしょう。身体が弱り介護が必要になった時はどうするのか。ホームへ入りたいとか、家で家族と過ごしていきたい。また、古い家があるのでしたら、2世帯住宅に建て替えようか、それにはいくらぐらいかかるのだろうかなど、親御さんにとって抵抗の少ない身近なテーマから始めると。親御さんも頭の整理がつきやすいでしょう」。
—生前贈与や相続税がどのくらいになるのか気になさるわりに、なかなか手をつけられない方が多いようですが、何から始めるのがよいでしょうか。
「生前に財産の全容を明らかにすることが気持ち的に難しい部分があることは確かですが、しかしそれが分からないと、いざという時に何がどこにあるのか分からず、相続手続きが進みません。不動産や金融資産を含め、何がどのくらいあるのか財産の棚卸しをするとよいと思います。エンディングノートなどと併せて、分からないことを解消するのに役立ちます。また、いきなり税理士や銀行に相談するのが敷居が高いようでしたら、簡単な本を参考に調べてみるとよいでしょう」。
—遺言書を書かなかった場合にはどのようなリスクがありますか。
「一次相続、ご両親のうちどちらかが先に亡くなった時の相続は、配偶者がいらっしゃるのであまり大きな問題にはなりません。二次相続、残された親御さんが亡くなった時は、残された遺産をめぐってお子さん同士で争いになるケースが多く見受けられます。感情的な問題も大きいので、遺言書があると無駄な争いを避けることができます」。
—相続税の基礎控除額が圧縮され、基礎控除額を超えるのではないか、相続税を払うために家を売らなければならないのではと懸念しておられる方が多くいらっしゃいます。何か良い方法はありますか。
「相続税を払うために住んでいる家や土地を売る。そんな事態を避けるために『小規模宅地等の特例』制度があります。これは、二世帯住宅など相続により取得した土地のうち一定の面積までは、土地の評価額を80%減額することができるというものです。ただし、被相続人と『同居』の親族である、同居親族が相続開始時から相続税申告期限まで引き続き宅地を所有し、家屋に継続居住することなど一定の要件を満たす必要があります。二世帯住宅が区分登記(例えば1階が親名義、2階が子名義で登記など)されている場合は適用されませんので注意が必要です」。
—その他、相続税対策として有効な方法はありますか。
「皆さん意外とご存じないのが『生命保険の非課税枠』の活用です。被相続人が死亡した場合の生命保険金は「みなし相続財産」として、相続税の計算の対象になります。しかし、全額が相続税の対象になるわけではなく、生命保険金には非課税枠というものが設けられています。500万円╳法定相続人の数が非課税限度額になります」。
—最後に相続を考えるにあたり、プロとしてのアドバイスをお願いします。
「今回ご紹介したいずれの方法も、全体の方針があってのものです。相続の問題は、ナイーブな問題でもあり、ケース・バイ・ケースで対策が変わります。私たちプロにご相談いただければ、最適の方法をご提案させていただきます。
何よりも大切なことは、ご自分が築かれてきた資産を、どのようにしたいかを考え、この先どのような生活を送りたいか考えることだと思います。自分が何歳まで生きられるのか分からない、そのためにいくら残せばよいのか分からない。その不安は誰にでもあります。しかし、歳をとるにしたがってお金は使えなくなってきます。以前より欲しい物も少なくなり、おいしいものもあまり食べられなくなってきます。生活がコンパクトになり、出費は減ってきます。逆に病院や介護の費用は増えますが、保険を上手に使うことで抑えることはできます。
ご自分と配偶者とで築き上げてきた財産をご自分たちのために有効に使い、残った部分を子どもたちに残していくのがよいのではないでしょうか。60代、70代の元気なうちに、今までできなかったことにお金を使ってみようという発想が大事なのではないかと思います」。
(ライター/後藤宏幸)
今回は、相続対策でよくある疑問やトラブルについて伺った。
—親が遺言書を書きたがりません。またお金や土地がどのくらいあるのか聞くと、「早く死んで欲しいのか!?」と怒られます。どうしたらよいでしょうか。
「遺言や相続はナイーブな問題で、どうしても後手後手にまわりがちなのですが、最近はテレビや新聞にも度々取り上げられて、次第に認知されてきていると思います。話のアプローチとしては、いきなり相続の話をするのではなく、ご本人にとって身近なテーマ、今後の生活をどうしたいかということから始めるのがよいでしょう。身体が弱り介護が必要になった時はどうするのか。ホームへ入りたいとか、家で家族と過ごしていきたい。また、古い家があるのでしたら、2世帯住宅に建て替えようか、それにはいくらぐらいかかるのだろうかなど、親御さんにとって抵抗の少ない身近なテーマから始めると。親御さんも頭の整理がつきやすいでしょう」。
—生前贈与や相続税がどのくらいになるのか気になさるわりに、なかなか手をつけられない方が多いようですが、何から始めるのがよいでしょうか。
「生前に財産の全容を明らかにすることが気持ち的に難しい部分があることは確かですが、しかしそれが分からないと、いざという時に何がどこにあるのか分からず、相続手続きが進みません。不動産や金融資産を含め、何がどのくらいあるのか財産の棚卸しをするとよいと思います。エンディングノートなどと併せて、分からないことを解消するのに役立ちます。また、いきなり税理士や銀行に相談するのが敷居が高いようでしたら、簡単な本を参考に調べてみるとよいでしょう」。
—遺言書を書かなかった場合にはどのようなリスクがありますか。
「一次相続、ご両親のうちどちらかが先に亡くなった時の相続は、配偶者がいらっしゃるのであまり大きな問題にはなりません。二次相続、残された親御さんが亡くなった時は、残された遺産をめぐってお子さん同士で争いになるケースが多く見受けられます。感情的な問題も大きいので、遺言書があると無駄な争いを避けることができます」。
—相続税の基礎控除額が圧縮され、基礎控除額を超えるのではないか、相続税を払うために家を売らなければならないのではと懸念しておられる方が多くいらっしゃいます。何か良い方法はありますか。
「相続税を払うために住んでいる家や土地を売る。そんな事態を避けるために『小規模宅地等の特例』制度があります。これは、二世帯住宅など相続により取得した土地のうち一定の面積までは、土地の評価額を80%減額することができるというものです。ただし、被相続人と『同居』の親族である、同居親族が相続開始時から相続税申告期限まで引き続き宅地を所有し、家屋に継続居住することなど一定の要件を満たす必要があります。二世帯住宅が区分登記(例えば1階が親名義、2階が子名義で登記など)されている場合は適用されませんので注意が必要です」。
—その他、相続税対策として有効な方法はありますか。
「皆さん意外とご存じないのが『生命保険の非課税枠』の活用です。被相続人が死亡した場合の生命保険金は「みなし相続財産」として、相続税の計算の対象になります。しかし、全額が相続税の対象になるわけではなく、生命保険金には非課税枠というものが設けられています。500万円╳法定相続人の数が非課税限度額になります」。
—最後に相続を考えるにあたり、プロとしてのアドバイスをお願いします。
「今回ご紹介したいずれの方法も、全体の方針があってのものです。相続の問題は、ナイーブな問題でもあり、ケース・バイ・ケースで対策が変わります。私たちプロにご相談いただければ、最適の方法をご提案させていただきます。
何よりも大切なことは、ご自分が築かれてきた資産を、どのようにしたいかを考え、この先どのような生活を送りたいか考えることだと思います。自分が何歳まで生きられるのか分からない、そのためにいくら残せばよいのか分からない。その不安は誰にでもあります。しかし、歳をとるにしたがってお金は使えなくなってきます。以前より欲しい物も少なくなり、おいしいものもあまり食べられなくなってきます。生活がコンパクトになり、出費は減ってきます。逆に病院や介護の費用は増えますが、保険を上手に使うことで抑えることはできます。
ご自分と配偶者とで築き上げてきた財産をご自分たちのために有効に使い、残った部分を子どもたちに残していくのがよいのではないでしょうか。60代、70代の元気なうちに、今までできなかったことにお金を使ってみようという発想が大事なのではないかと思います」。
(ライター/後藤宏幸)
薬袋税理士事務所
TEL:03-6228-6400 Eメール:info@tax-bpc.com
ホームページ http://www.tax-bpc.com/
有限会社 スリースターズ 代表取締役
メイプル薬局 平群店 代表
永田哲彦氏
長崎県出身。九州の大学の薬学部で学び、薬剤師資格を取得。福岡の病院内薬局で約3年、大阪の薬店で約4年勤務後、奈良県内の薬店、ドラッグストア調剤薬局に勤務。『スリースターズ』入社、経営権を得て2007年、「メイプルファーマシー」FCとして『メイプル薬局平群店』継承。
メイプル薬局 平群店 代表
永田哲彦氏
長崎県出身。九州の大学の薬学部で学び、薬剤師資格を取得。福岡の病院内薬局で約3年、大阪の薬店で約4年勤務後、奈良県内の薬店、ドラッグストア調剤薬局に勤務。『スリースターズ』入社、経営権を得て2007年、「メイプルファーマシー」FCとして『メイプル薬局平群店』継承。
地域の健康を守る活動に注力
薬剤師の使命自覚し信念実践
薬剤師の使命自覚し信念実践
「患者さんのため、地域のために、質の高い地域医療の実現に力を注ぎ、胡坐をかくことなく、誠意を以て仕事に取り組む」。奈良県生駒郡平群(へぐり)町で『メイプル薬局平群店』を営む「スリースターズ」代表取締役の永田哲彦さんは、薬剤師を目指したときから持ち続けている信念を守り続け、文字通り胡坐をかくことなく実践してきた。
奈良県生駒郡斑鳩町に生駒、北葛城両郡7町が共同で創設した王寺周辺広域休日応急診療施設組合の三室(みむろ)休日応急診療所がある。休日や休日夜間に急患に対して応急的な診療を行う医療施設だ。医師や歯科医師、薬剤師、看護師などが輪番で担当する。永田さんは、地域住民が安心して暮らすうえで大きな意味を持つと積極的に手を挙げ、薬局の定休日の日曜日、祝日を利用し、最低でも2ヵ月に1回、診療所に詰め、調剤に当たる。
これだけではない。『メイプル薬局平群店』は月曜から金曜が午前9時から午後8時、土曜が9時から午後6時まで営業しているが、永田さんは局での調剤の合間を縫って、2週間に一度、介護施設に出向き、介護職員を通じて、薬が必要なお年寄りに服薬指導をしている。
また、昼休みを利用して、重篤な病気を持ち、外出ができない患者さんや車いすに頼っていて薬局に来るのが困難な患者さんのいる家庭を車で回って薬を届けるほか、薬の飲み忘れに注意を喚起したり、効用がわからなくなった薬を整理したりして、患者さんを支えている。
さらに、地域包括ケア活動にも熱心だ。地域包括ケアは団塊の世代が75歳以上になり、高齢化がピークとなる2025年問題を乗り越える方策として厚生労働省が主導する政策。高齢者が人生の最期まで住み慣れた地域で自分らしい暮らしを続ける上で必要な支援体制づくりを市町村ごとに進めるものだ。平群町でも医師や薬剤師、看護師、ケアマネージャー、介護士などが協力し合って、病院を退院した患者さんなどを支援している。永田さんは薬剤師として、地域の世話役として連絡調整などの形で関わり、医療従事者たちが協力するネットワークの構築に寄与している。
永田さんは、長崎県出身。高校までは県内で過ごし、その後は九州の大学の薬学部に進学した。薬剤師の道を志したのは、永田さんのいとこが心臓病を患ったことがきっかけだった。
「いとこは残念ながら亡くなりましたが、その闘病生活を通して、治療に懸命に励む医師の姿を見て、医療に携わる仕事をして人の健康を助けられればと思ったのです。この想いが地域活動へ衝き動かしているのだと思っています。薬剤師といえば薬局内で調剤に追われる姿を思い浮かべるかもしれませんが、2006年に医療法が改正され、調剤を実施する薬局が医療提供施設と位置づけられました。これによって調剤薬局が単なる医薬品販売店舗でなく、医療を提供する場所でもあることが明文化されました。その趣旨を考えても、薬剤師として地域医療の向上に積極的にかかわる責務もあると思っています」
薬剤師の国家資格を得てから、永田さんは院内薬局、薬店、ドラッグストアといろいろ経験してきた。大学卒業後、福岡県内の病院内薬局で勤務。その後、大阪の知人の薬剤師から誘われ、その手伝いで大阪の薬店に勤める。さらに奈良県内の薬店、ドラッグストア調剤薬局で約16年勤務した後、『メイプル薬局平群店』を営む「有限会社スリースターズ」に入社、経営権を譲り受け、2007年に地域医療に貢献する調剤薬局グループを標榜する「メイプルファーマシー」のフランチャイズ店として、3人の薬剤師をスタッフに営業を始めた。処方せん受付医療機関は約100にのぼり、1500品目以上の調剤用医療薬品を扱う調剤薬局として確かな地歩を築いている。
「長崎県の出身者が何故奈良県で薬局をとよく聞かれますが、学生時代に奈良に修学旅行で来たことがあり、 その時に奈良の雰囲気に強く惹かれ、人生の最後は奈良で暮らしたいと思うようになったのです。実は私は娘を若くして亡くしていて、健康の大切さを人一倍感じています。歴史と文化、恵まれた自然を有し、大阪の近郊住宅地としても発展してきた平群町に根を下し、地域みんなの待合室と呼べる薬局を目指してきました。同時に、医師や看護師、ケアマネジャー、介護士の方々との間で築いた信頼関係をさらに強固なものにしながら、今後も地域の健康を支え続けていきたいと思っています」
薬剤師人生を貫く信念、温厚実直な人柄が描く夢は温かい。
(ライター/斎藤紘)
奈良県生駒郡斑鳩町に生駒、北葛城両郡7町が共同で創設した王寺周辺広域休日応急診療施設組合の三室(みむろ)休日応急診療所がある。休日や休日夜間に急患に対して応急的な診療を行う医療施設だ。医師や歯科医師、薬剤師、看護師などが輪番で担当する。永田さんは、地域住民が安心して暮らすうえで大きな意味を持つと積極的に手を挙げ、薬局の定休日の日曜日、祝日を利用し、最低でも2ヵ月に1回、診療所に詰め、調剤に当たる。
これだけではない。『メイプル薬局平群店』は月曜から金曜が午前9時から午後8時、土曜が9時から午後6時まで営業しているが、永田さんは局での調剤の合間を縫って、2週間に一度、介護施設に出向き、介護職員を通じて、薬が必要なお年寄りに服薬指導をしている。
また、昼休みを利用して、重篤な病気を持ち、外出ができない患者さんや車いすに頼っていて薬局に来るのが困難な患者さんのいる家庭を車で回って薬を届けるほか、薬の飲み忘れに注意を喚起したり、効用がわからなくなった薬を整理したりして、患者さんを支えている。
さらに、地域包括ケア活動にも熱心だ。地域包括ケアは団塊の世代が75歳以上になり、高齢化がピークとなる2025年問題を乗り越える方策として厚生労働省が主導する政策。高齢者が人生の最期まで住み慣れた地域で自分らしい暮らしを続ける上で必要な支援体制づくりを市町村ごとに進めるものだ。平群町でも医師や薬剤師、看護師、ケアマネージャー、介護士などが協力し合って、病院を退院した患者さんなどを支援している。永田さんは薬剤師として、地域の世話役として連絡調整などの形で関わり、医療従事者たちが協力するネットワークの構築に寄与している。
永田さんは、長崎県出身。高校までは県内で過ごし、その後は九州の大学の薬学部に進学した。薬剤師の道を志したのは、永田さんのいとこが心臓病を患ったことがきっかけだった。
「いとこは残念ながら亡くなりましたが、その闘病生活を通して、治療に懸命に励む医師の姿を見て、医療に携わる仕事をして人の健康を助けられればと思ったのです。この想いが地域活動へ衝き動かしているのだと思っています。薬剤師といえば薬局内で調剤に追われる姿を思い浮かべるかもしれませんが、2006年に医療法が改正され、調剤を実施する薬局が医療提供施設と位置づけられました。これによって調剤薬局が単なる医薬品販売店舗でなく、医療を提供する場所でもあることが明文化されました。その趣旨を考えても、薬剤師として地域医療の向上に積極的にかかわる責務もあると思っています」
薬剤師の国家資格を得てから、永田さんは院内薬局、薬店、ドラッグストアといろいろ経験してきた。大学卒業後、福岡県内の病院内薬局で勤務。その後、大阪の知人の薬剤師から誘われ、その手伝いで大阪の薬店に勤める。さらに奈良県内の薬店、ドラッグストア調剤薬局で約16年勤務した後、『メイプル薬局平群店』を営む「有限会社スリースターズ」に入社、経営権を譲り受け、2007年に地域医療に貢献する調剤薬局グループを標榜する「メイプルファーマシー」のフランチャイズ店として、3人の薬剤師をスタッフに営業を始めた。処方せん受付医療機関は約100にのぼり、1500品目以上の調剤用医療薬品を扱う調剤薬局として確かな地歩を築いている。
「長崎県の出身者が何故奈良県で薬局をとよく聞かれますが、学生時代に奈良に修学旅行で来たことがあり、 その時に奈良の雰囲気に強く惹かれ、人生の最後は奈良で暮らしたいと思うようになったのです。実は私は娘を若くして亡くしていて、健康の大切さを人一倍感じています。歴史と文化、恵まれた自然を有し、大阪の近郊住宅地としても発展してきた平群町に根を下し、地域みんなの待合室と呼べる薬局を目指してきました。同時に、医師や看護師、ケアマネジャー、介護士の方々との間で築いた信頼関係をさらに強固なものにしながら、今後も地域の健康を支え続けていきたいと思っています」
薬剤師人生を貫く信念、温厚実直な人柄が描く夢は温かい。
(ライター/斎藤紘)
有限会社 スリースターズ メイプル薬局 平群店
TEL:0745-46-2170 FAX:0745-46-2171