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べっぷ莊野美術館 館長
莊野敏子氏
1927年、大分市に生まれる。1984年、近代水墨会に入会。1988年、「城島高原」でスペイン日本文化祭に出展。1990年、「地蔵菩薩」で近代水墨展の金賞受賞。1992年、銀座澁谷画廊で第1回個展を開催。1995年、「渓谷」で近代水墨展の会長賞受賞。2008年、『べっぷ莊野美術館』をオープン。 |
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別府温泉にある美術館
夫婦の軌跡がそこに
別府温泉にある私設美術館『べっぷ莊野美術館』。そこには夫婦が手がけたそれぞれの美しい作品が展示されている。
「亡き夫、莊野昌の昭和女性の美しさを描いた切り絵の世界を多くの人に知って欲しい。また、私自身も水墨画を永く学んできて、その墨の濃淡が醸し出す美しい世界の普及と自分が歩んできた人生の鎮魂の譜としても展示させてもらいました」と、『べっぷ莊野美術館』館長の莊野敏子氏は話す。
同館は、50歳で切り絵に出会い79歳で急逝するまで制作し続けた切絵作家の莊野昌氏が遺した黒和紙による切り絵と、その夫人で水墨画家の敏子氏の水墨画40点を常設展示する私設美術館だ。
「昌は、本職の海外コンサルタント活動の傍ら1975年から切り絵を始めました。私が絵を始めたのは、県庁を退職する前の1981年。故石井成児先生に師事し近代水墨画を始めました。その後1985年から7年間中国墨絵を学びました。『莊野昌切り絵第一集』が出版されたのもこの年で、彼はタイ出張中でした」と、敏子氏。
昌氏は、中学生の頃に漫画家になる夢を抱きながら、家族の反対で断念。50歳の時に切り絵に出会って一気にその才能が花開いた感じがする。敏子氏は在職中なかなか絵に時間を取れなかったが、退職後、水墨画の個展を昌氏の協力のもと開催するようになる。敏子氏は若い頃に油絵の画家を目指していながら筆を置き、年月を経てからなぜ水墨画を選択したのか。
「絵を描きたくなり、それも色を余り使わずに。白い和紙に書くときの、墨の色合いの病妙さ。二度と描けない偶発的な表現。墨が織りなす幽玄な色の世界に魅せられました」
敏子氏のそんな水墨画を画集にまとめようとした矢先に昌氏が急性心筋梗塞で亡くなる。
「母と妹二人を続けて亡くした私を支えてくれた昌も逝ってしまいました。今思うと水墨画は私にとって鎮魂譜とも言えるのかもしれません」
1974年に結婚してから共に30年の歳月を刻んできた2人。その軌跡が『べっぷ莊野美術館』に今も息づいている。
(ライター/武石文子)
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