最強のアスリート、エディ・メルクス氏は自転車づくりにおいても一切の妥協を許さず、
自社工房で一貫生産を行い、厳しい目をいきわたらせ高品質な自転車を生んでいる。
そのエディ・メルクス氏の情熱の結晶を日本において
唯一販売する「深谷産業」の歴史は日本の自転車の歴史でもある。
自転車レース史上最も偉大な選手
エディ・メルクス氏は、1961年に16歳で自転車競技を始め、17歳の時には48レースに出場、25勝をあげる。その記録の中には出場レース連続13勝という記録を残した。1964年には19歳の若さでアマチュア世界選手権を制しチャンピオンとなる。同年東京オリンピックのベルギー代表のロード選手に選ばれ来日する。
1965年にプロ入り、翌1966年にいきなりミラノ〜サンレモで優勝してデビューを飾る。1969年に「ツール・ド・フランス」初出場で総合優勝、加えてポイント賞と山岳賞も受賞し主要3部門独占を果たす。この記録を達成した選手は今でもメルクス氏のみだ。メルクス氏は16年間にわたる現役時代、この「ツール・ド・フランス」で5勝している。この「ツール・ド・フランス」はフランスおよび周辺国を舞台にして行われる自転車プロロードレース。「毎年7月に23日間の日程で行われ、距離にして3300㎞前後、高低差2000m以上という起伏に富んだコースのレースだ。さらにそれに加えジロ・デ・イタリアでも5勝、世界選手権でも3回優勝、クラシックレースでの強さも圧倒的だった。全盛期だったモルテニ所属時代にその攻撃的な走りと出場する全てのレースへの勝利への貪欲さから、カンニバル(人食い人種)と呼ばれ恐れられた。1970年、72年とダブルツールを成し、1974年には世界選手権も含めてトリプルクラウンを達成する。アマチュア時代からトータルで525勝という不滅の数字を打ち立て、今後もこのメルクス氏を超える選手は出ないだろうといわれ、1869年パリ〜ルーアンから始まる140年余にわたる自転車レース史上最も偉大な選手とされている。
パーツひとつにも神経をそそぐ
メルクス氏のこだわり
メルクス氏は現役時代から機材にうるさい選手として有名であり、自転車へのこだわりが強く常に巻き尺を携帯していた。パーツの軽量化のために穴開け加工をしたり、軽量なフレームをコルナゴに作らせたり、チタニウム製のスペシャルパーツをカンパニョーロに作らせたりもしている。
そんなメルクス氏は引退後、現役中に使用していたフレーム制作を依頼していたウーゴ・デローザに師事した後、自身の名を冠した工房「エディ・メルクス社」を、古い農家の建物でスタートさせた。
自社の工房ではそのこだわりを存分に発揮している。氏は「私はまず第一に優れた品質の自転車を作りたい。現役時代機材には常に厳しかったが、それはプロとしてレースで使うものだったから。だからこの工房でも完璧なものを作っていく」と話す。長年のうちに自転車で使う素材も変遷してきたが、工房では時代にあわせ常に最良のものを求めていく。スチールでのフレームは工房では5%から10パーセントに減り、軽いアルミか強いチタンを使用している。チタンはアルミほど軽くはないが一生使えるほど長持ちする素材だ。工房では金属合金は使わない。メルクス氏は「フレームは同じ素材がいい。素材によって働きも違う」という。
工房ではフレームの溶接から塗装まで一貫した自社生産を行う。溶接が難しいチタンのフレームから塗装までをすべて自社で生産することによりメルクス氏の厳しい目が隅々までいきわたることになり、それが高品質な自転車を生むのだ。
「私ほど自転車好きの酔狂な人間はいないだろう。私は熱中しすぎたが、この工房ではそれが役に立っている。現役時代の豊富なレース経験は今の自転車づくりにとり大切なものだ。それは乗っていた時の感覚が自転車づくりに生かせるからだ」と、メルクス氏。氏は現役時代、真夜中に突然起きだして、ハンドルバーの角度やギア比を変えるのは、珍しいことではなかったという。彼にとって、ポジションやフィッティング、それらの変化によるフィーリングの変化は最重要の課題なのだ。工房の規模を拡大する予定を聞くと「私は今の規模で、自分が管理できる範囲内ですべてを作りたい」という。
工房は、ただ有名選手の名を冠しただけのメーカーでは無く、積極的にフレームの改良を行い、ビギナー向けからTT用のフレームまで制作するトップレーシングブランドとして確立している。
現在もメルクス氏は工房の中心人物としてより高いレベルの製品を求めるべく、細部とに至るまで神経をいきわたらせ、その品質にこだわりつづける。デザインの過程においても、彼なしでは決定されず、新しいモデルはいつもメルクス氏は自身がテストを行う。
「深谷産業」の100年の歴史は日本における自転車の歴史
「エディ・メルクス社」の日本での輸入代理店は「深谷産業」。日本で唯一のメルクス氏の自転車の輸入代理店として、日本全国約150店のサイクルショップに卸している。その深谷産業は、史上最強の自転車選手メルクス氏の自転車を扱うにふさわしい歴史を有している。
日本の自転車の歴史を紐解くと、「深谷産業」の100年の歩みと重なる。地道でありながらつねにチャレンジ精神を失わず、高い志のもとで技術を磨き、文化を育ててきた。
「深谷産業」は、単に自転車の製造というだけのことにはとどまらず、諸外国との文化・スポーツを通しての交流という面でも日本社会に多大な貢献をしてきた。
日本に初めて自転車が伝えられたのは明治維新前後。高級な外国品ばかりで、なかなか一般庶民には手が届かなかった。その後、明治末期の1911年、日本で自転車が急速に普及し始めた時代に「深谷産業」の全身の「深谷商店」が、当時の自転車産業のメッカ・名古屋で、自転車の製造と販売を始めることとなった。オリジナル自転車「月星号」を発売し、子どもから大人までのサイズをそろえた自転車としてロングセラー商品となり、藍綬褒章を受賞。以来、「深谷産業」は、自転車とともに発展の軌跡を刻み続けることになる。
「深谷産業」は、現社長の深谷えり子氏の父の代に、ヨーロッパの自転車パーツを日本に広め始める。スポーツバイクを中心に、外国のブランドも多く取り扱うことになり、1985年、スポーツバイクのブランドメーカーとして世界最高の品質を誇る「エディメルクス社」の日本代理店となった。
また、自社のブランド『ギザロ』、『ダボス』などのも販売、ロードバイク、クロスバイク、マウンテンバイクなど日本人にはなじみの薄かったスポーツバイクを躍進的に普及させた。「完成品のみならず、パーツも多く取りそろえることが、自転車文化の更なる発展につながっていくと思いますから、より多くの部品を取り揃えています」と深谷社長。
また「深谷産業」日本の自転車文化振興のために、数々のイベントを主催、協賛し、スポーツバイクのすばらしさを、多くの人たちに伝えている。
今だ続いている自転車ブームの日本で、メルクス氏の精神と熱意の結晶のラインアップは、「深谷産業」の念願である日本での自転車文化の隆盛をさらに牽引していくだろう。
(ライター/本名広男)